2011年7月3日日曜日

補足 「守り立てる心(followership)」 Ⅱサムエル15:1-12、ヨハネ10:1-11

今回の学びは、賜物の学びの補足として、フォロワーシップについてです。この言葉はまだ馴染みが薄いので、良い日本語を探していましたが、やっと思いつきました。それは「守り立てる心」です。辞書にはこうあります「守り立てる…1そばから励まし助ける。2衰えたものを再び盛んにする。3まもり育てる」。現在、政治においては、リーダーシップの欠如が叫ばれますが、実は、フォロワーシップの欠如の方が深刻な状況ではないかと感じています。アメリカにおいて比較的健全なリーダーシップが存在するのは、健全なフォロワーシップ(守り立てる心)があるからです。オバマ氏くらいの人物は、もしかしたら何人もいるのかもしれません。でも経験の少なかった彼をリーダーとして選び、ともに歩み、育て、守り立てているアメリカはやっぱり凄いと思います。これがフォロワーシップです。日本ではリーダーを批判するばかりで、自分たちの責任は棚上げです。健全なフォロワーシップのないところに、健全なリーダーシップも育ちません。

ヨシュアの時代のイスラエルには、このフォロワーシップがありました。モーセという偉大な指導者から、突如バトンタッチをされたヨシュアは、内心不安だったかもしれません。でも主は、そんな彼を何度も「強くあれ、雄々しくあれ(ヨシュ1:6)」と励まされました。また民も、若いヨシュアを守り立て「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちはモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように (1:16-17)」。と従いました。このフォロワーシップがなければ、ヨシュアとて潰れてしまったことでしょう。

フォロワーシップ(守り立てる心)も立派な賜物です。賜物というと、人を惹きつけグイグイ引っ張る能力のことだと思われがちです。しかしリーダーを助け、陰ながら守り立てていくのも立派な賜物です。イエス様には、12弟子やマルタとマリヤといった「フォロワー」がいました。またパウロには、テモテやアクラとプリスキラといった「守り立て役」がいました。偉大なリーダーの陰には、必ず偉大なフォロワーがいるのです。彼らは、ただ従順だったのでもなく、前回話したように権限移譲され、自分の頭で考え、いざという時には大胆に行動することもできました。

偽物には気をつけなさい。世の中には人間的な力で結びついた、リーダーシップとフォロワーシップの関係もあります。例えばアブシャロムがそうでした。彼は人々の愚痴を聞き、大げさに情けをかけ、民の「心」を盗みました(Ⅱサム15章)。英語の聖書(TEV)では「loyalty(忠誠心)を盗んだ」と訳されています。その忠誠心は、本来ダビデに向けられるべきものでした。しかしアブシャロムは、それを自分に向けさせたのです。現代の教会のリーダーたちも、自分のリーダーシップのなさに悩むことがあるかもしれません。でも、アブシャロムの真似をしてはいけません。どんな時でも御言葉の上にかたく立って、毅然としていなさい。そこから真の霊的なリーダーシップが生まれるのです。また信徒も、教役者たちにアブシャロムを求めるべきではありません。

私たちの忠誠心はすべてイエス様のものです!聖書にこうあります。「羊は、彼(イエス様)の声を知っているので、彼について行きます (ヨハネ10:4)」。よく勘違いされますが、羊飼いはイエス様で、牧師のことではありません。牧師は、あくまで羊(信徒)たちが、魂の牧者であるイエス様の声を聞いて、イエス様についていけるようにすることです(10:11)。その働きの尊さのゆえに、完璧ではなくても、やさしい目をもって、牧師とその家族を守り立てていくことも羊の責任です。

教会には、健全なリーダーシップとフォロワーシップが必要です。どちらが偉いか、大切か、という問題ではありません。あなたの協力があって、牧師は牧師となり、霊的な教会は建て上げられていくのです。

「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。
また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。
私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。
ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、
あなたとともにおられますように。ただ強く、雄々しくあってください。」
ヨシュア1章16-18節

2011年6月25日土曜日

補足 「権限委譲(empowerment)」 出エジプト18:13-27、マルコ6:1-7

5ステップの学びは前回終わりましたが、今回はその補足として権限委譲(empowerment)について学びたいと思います。というのは、この権限委譲がうまくいくかどうかによって、教会全体が生き生きし、ミニストリーに広がりが生まれるか、それとも教会全体が硬直化し、ミニストリーが失墜してしまうかが大きく方向づけられてしまうからです。また、間違った権限委譲は、教会に混乱と分裂をもたらします。そこで今日はこのテーマについて聖書から学びたいと思います。

権限委譲の原型は出エジプトに見ることができます。実は神様が人をつくられた時から権限委譲は始まっていました。創世記にこうあります。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように(1:26)」「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた(2:15)」これも立派な権限委譲です。しかし組織的に行われたのは、やはり出エジプトにおいてでしょう。モーセのしゅうとイテロはこう助言しました。「あなたのしていることは良くない(18:18)」「民全体の中から、神を恐れる…人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立て(21)」「小さな事件は彼らが裁かなければなりません(22)」。

またイエス様も弟子たちに権限移譲を行われました。マルコ福音書にこうあります。「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった(マルコ6:6-7)」。この直前、イエス様は故郷のナザレで宣教されましたが、尊敬されず、そこでは何一つ力あるわざを行うことはできませんでした(5)。でもその出来事が、弟子たちの派遣という「広がり」につながったのです。しかも、イエス様は、弟子たちを「二人ずつ遣わされ」ました。神の国の宣教活動は、もともと一人で行うものではないのです。みんな(チーム)で重荷を負い合い、助け合いながら行うものです。最後の大宣教命令も、言ってみれば権限移譲の命令です。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:18-19)」。いま聖霊によって、その力と権威が私たちにも与えられているのです。

ミニストリーにおいて、健全な権限移譲は必要不可欠です。開拓当初の教会においては、牧師とその家族が、週報の印刷から伝道牧会まで、何でもやらなければいけないこともあるでしょう。しかし教会の成長に伴って、徐々に、その働きを他の兄弟姉妹にも移譲して行かなければならなりません。権限移譲には4つのステップがあります。①I do, you see.(私がやって、あなたは見ています)。②I do, you help.(私がやって、あなたは助けます)。③I help, you do.(あなたがやって、私は助けます)。④I see, you do.(あなたがやって、私は見ています)。そうしてミニストリーを受け継いだら、今度は自分もその奉仕を握りしめず、先ほどの4ステップを踏んで、後の人に引き継いで行くのです。これが、以前も説明した、健全な奉仕のバトンタッチです。

しかし権限移譲であり、全権委譲ではないことを忘れてはいけません。大きな責任を任されると、嬉しくなって(それ自体は素晴らしいことですが)、間違った所有者意識をもってしまうことがあります。つまり「これは私が任されたことなんだから、私が決める。誰からも(牧師にも)口出しして欲しくない」とすべてを抱え込んでしまうのです。しかしそれは神様の喜ばれる姿ではありません。人(特にリーダーや指導的な立場にある人)の忠告や指導を受け入れる、謙遜さを失ってはいけません。そうでないとそのミニストリーは祝福されず、あなたのためにもならないからです。

あなたは自ら進んで教会の責任を担おうとしているでしょうか?何でもいいのです。何かの責任を担いなさい。しかし握りしめてはいけません。「開かれた心でしっかり仕える」それが大事!

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。
この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために
見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、
嘆いてすることにならないようにしなさい。
そうでないと、あなたがたの益にならないからです(ヘブル13:17)

2011年6月11日土曜日

ステップ5 「経験(Experience)」 Ⅱコリント1:2-11、11:23‐12:10

SHAPEの学び(5ステップ)もいよいよ最後となりました。この最後のステップは特に重要な意味を持ちます。それはあなたの全人生に関わることであり、クリスチャンとしての生き方そのものに関わることだからです。リック・ウォレンはこう言います。「この最後のカテゴリーである苦痛の経験こそ、神様があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。あなたの最も重要な働きは、あなたが最も苦しんだ経験から生まれてくると言っても過言ではありません(人生を導く5つの目的p323)」。

苦痛経験が、自動的にミニストリーの益になるのではありません。同じ苦痛を経験したとしても、ある人は、そこから、自己憐憫や被害者意識、ねたみや憤りを獲得して行くのです。しかしある人は、同じ経験から、謙遜と希望と愛を獲得して行くのです。何が違うのでしょうか?それは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」この聖書の真理を、心から信じているかどうかです。たとえ不本意で、消してしまいたいような経験であったとしても、神様にはそれを益に変える力があると信じ、人を許し、自分を許し、(おかしな表現かもしれませんが)神様さえも許す必要があるのです。そうして初めて、あなたの人生に変化が訪れます。

しかし、苦痛経験には落とし穴もあります。もし私たちが、自分の経験に寄り頼み過ぎたり、絶対化したり、人にも押し付けようとするなら、その経験はかえって「人生の仇(あだ)」となってしまいます。経験は人それぞれです。あなたの人格形成や霊的成長のために、その経験は必要だったかもしれませんが、他の人にはまったく別の人生が用意されているのです。またあなたに与えられた解決の道と、他の人に用意されている解決の道とはまったく違うかもしれません。それなのに、自分の経験を絶対化し「あなたも、もっとこういう苦労を経験するべきだ」とか「こうやって解決しなさい」と人にも自分の経験を押し付けるなら、その経験はあなたにとって益とならなかったのです。あなたは、その経験によって「謙遜」ではなく「傲慢」を身につけたからです。

大切なのは、苦痛経験を通して神をより頼むものになることです。パウロは数々の試練を経験し、次の結論に達しました。「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(Ⅱコリ12:9)」。これは苦労そのものや、肉体的な弱さそのものを誇ると言う意味ではありません。そうではなくて「私は自分の弱さを通して、完全に働いてくださる神様と、その御力を誇る」と言っているのです。試練の荒波にもまれ、自分自身に白旗を上げ、100パーセント神様により頼むものとなる、これこそ試練の意味なのです。別の箇所で、パウロはこうとも言っています。「本当に自分の心の中で死を覚悟しました。これはもはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした(Ⅱコリ1:9)」。

そして初めて、その経験が神と人との役に立つのです。パウロはこう言っています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです(Ⅱコリ1:4)」。ここにもある通り、人生の苦痛を経験し、そこに注がれる神様の憐れみと愛を経験した人は、本当の意味で人をも慰めることができるのです。なぜなら、その人は、苦しみの中にいる人々の心に、本当の意味で寄り添うことができるからです。自分の経験を押し付けず、お説教せず、まずは相手の心にしっかり寄り添う。それがすべてのミニストリー(奉仕)の基本です。

あなたはどのように自分の賜物を輝かせますか?自分の能力や経験をアピールしますか。申し訳ありませんが、教会はそのようなところではありません。教会とは自分の弱さや罪深さと向き合い、そこに注がれる神様の偉大な力を信じる人々の集まりです。特別なことはできなくていいのです。ただ心から神と人を愛してください。そんなあなたの存在が、かけがえのない賜物です!

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい
(ルカ22:32)

2011年6月4日土曜日

経験(Experience)アンケート

 あなたは、人生経験を積み重ねて行く中で、人格的に整えられてきました。それらの経験はどれも、あなた自身ではコントロールすることのできないものだったにちがいありません。神様は、あなたという人間を作り上げて行くために、それらすべてのことが起こることを許されたのです。

 神様に仕えて行くにあたって、自分のかたちを理解することは大切です。そのために過去を振り返りながら、主にあって今までの経験を受け止め直す必要があります。しかも「情熱」のステップでは、過去における「喜びのツボ」とか「成し遂げたこと」などについて考えましたが、この「経験」ステップでは、より深い「痛み」とか「悲しい経験」に目を向けたいと思います。

 ある人にとっては辛いことかもしれません。どうぞ、差し障りのない範囲でお答えください。そして必ず「そこから学んだこと」も加えて考えるのです。グループでの学びの際は、時間の都合上、全部ではなく1~5の質問から一つを選んで、お答えいただくのが良いと思います。




1. 人間関係の経験
 今までの人間関係で、心を痛めた経験はありますか?




 そこからあなたは何を学びましたか?



2. 仕事の経験
 仕事をするなかで、辛かったことはありますか?




 そこから、あなたは何を学びましたか?




3. 霊的経験
 信仰(教会生活)を貫く中で、何か特に苦労したことはありますか?




 そこから、あなたは何を学びましたか?




4. 身心の健康面での経験
 あなたはいままで、何らかの肉体的、精神的な痛みを経験してきましたか?




 あなたはそこから何を学んできましたか?




5. 家庭の経験
 (生まれのor結婚後の)家庭において何か悲しかった経験はありますか?




 そこからあなたは何を学びましたか?





● あなたは、1~5のような経験を、
  どのように神と人(教会とミニストリーと宣教)とに役立てることができますか?







以上のことを踏まえたうえで
あなたは下記の御言葉を本当に信じていますか。
宣言する気持ちを強く持って
もう一度大きな声で読みましょう。

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8章28節



アーメン!

次回は、以上の内容を踏まえて
聖書から更に学びを深めたいと思います。

2011年5月26日木曜日

ステップ4 「気質(Personality)」 使徒15:36-41、Ⅱテモテ4:9-18

SHAPEの学びの、いよいよ第4ステップです。前回は「気質(Personality)」アンケートを行いました。あなたの気質は何でしたか?その結果に自分で納得がいきましたか?あのような心理テストのような方法がベストだとは言いませんが、大切なのは、私たちが「自分自身を知る努力」を怠らないということです。内向的になり過ぎるのは問題です。また、近年のスピリチュアルカウンセリングのような、明らかに異教的な手法も避けるべきです。でも、学問的に研究され、歴史的に検証された知恵からは、それがこの世の学問であったとしても、謙遜に学ぶところはたくさんあると思います。それらをすべて「この世的」とはねつけるのは、クリスチャンの傲慢です。

まな板の鯉となりなさい。箴言にこうあります。「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表す(18:1-2)」。「分別のある貧しい者は、自分を調べる(28:11)」。少し極端なこといえば、どんなに聖書をたくさん読んでも、どんなに祈っても、どんなに素敵な賛美を捧げても、自分自身に対する健全な理解がなければ、その人の霊的成長はあるところで止まってしまいます。なぜなら、主のみこころを、自分自身のこととして聞く、心のアンテナが育っていないからです。その人は「聖霊によって示された」と言いながらも、結局自分の悟りの範囲をぐるぐると回っているだけなのです。健全な信仰には、健全な人間(自分)理解と、健全な神様(御言葉)理解の両方が不可欠です。

気質について、パウロとバルナバを比べてみることは、非常に興味深いです。この二人は、マルコという一人の青年をめぐって激しい反目となりました。パウロは第一次伝道旅行の際「一行から離れてしまい(直訳:見捨ててしまい)、仕事のために(宣教という使命のために)同行しなかったような者は、一緒に連れて行かない方が良い」と主張しました。しかしバルナバは、マルコも連れて行きたかったのです。ここから分かる彼らの気質は何でしょうか?パウロの気質は、自分にも人にも厳しくて、妥協を許さないコレリック(胆汁質)です。それに対してバルナバは、平和的で、人と人とを繋ぐフレグマティック(粘液質)だと言えます。その違いの背景には、マルコがバルナバのいとこであったことも影響しているのかもしれません。しかし、元々パウロをクリスチャンの交わりに紹介したのも、探し出してアンテオケ教会に連れてきたのもバルナバでした。

良い悪いではなくて、これは「違い」なのです。パウロのような人たちばかりだったら大変です!あまりにも厳しすぎて、ついて行けない人が続出でしょう。しかも彼には、公衆の面前で、使徒としての大先輩であるペテロだけでなく、命の恩人バルナバでさえも、ひどく非難するようなところもありました(ガラテヤ2:11)。でも、このパウロが、バルナバよりも大きな働きを成し遂げたのは、歴史的な事実なのです。二人が別れて後、バルナバの働きは、ほとんど聖書に記されていません。大きな働き(ミッション)を成し遂げるためには、パウロのような人物が必要不可欠です。そしてそのパウロのような人物は、バルナバを必要としているのです。バルナバがいないと、パウロはどんどん孤立してしまうのです。教会には、パウロもバルナバも必要なのです。

違ったもの同士が、認め合うことが大切です。完璧な人は誰もいません。誰にでも、強いところもあれば弱いところもあるのです。強みには感謝し、弱いところには気をつけましょう。それによって同じ過ちを繰り返すことから守られます。また人の気質に関しては、良いところをたくさん見つけて、折にふれ褒めてあげましょう。そうすることによって互いに高められるのです。パウロは後に、マルコを「同労者(ピレ24)」と呼び「彼は私の務めのために役に立つからです(Ⅱテモテ4:11)」と褒めています。またバルナバとも和解したことが暗示されています(Ⅰコリ9:6)。

気質を知りながらも、気質に縛られず、成長(成熟)させてくださる方に期待しましょう。ミニストリーに実際に従事する中で、神様からの取扱いを受けると、生まれながらの気質が聖められ、より神様のお役に立つようになるのです。後のパウロはオネシモという逃亡奴隷についてこう書いています。「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています(ピレモン11)」。以前のように人を切り捨てず、成長させてくださる神様に期待するパウロの信仰があふれています。そしてこの言葉は、パウロ自身のことでもあるのではないでしょうか。サウロ時代の彼は、もちろん神様の役に立たず、主の教会を迫害するものでした。しかしその彼がイエス・キリストに出会い、人生を180度変えられ、救われてからも少しずつ聖められ、神様のお役に立つ者となっていったのです。

自分と違った人、理解できない人を受け入れなさい。いや、もう一歩進んで、自分に欠けているところを補ってくれる、大切な存在として敬意を払いなさい。あなたにとってその人の存在が必要なのです。自分自身をよく知れば、自分の良いところを正当に評価し、弱いところを受け入れられるようになります。すると自分と違った人のことも、受け入れられるようになるのです。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりも
すぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、
他の人のことも顧みなさい。
ピリピ2章3-4節

2011年5月20日金曜日

あなたの気質(Personality)アンケート

<はじめのお願い>
今回の内容には心理学(心理テスト)的な手法も含まれます。もしもそのような手法に抵抗を感じられる方がいましたら、下記の内容をお読みにならないことをお勧めします。「自己啓発だ」「心理学的とキリスト教を同列に扱うのか」「祈りと御言葉で十分だ」などの批判は重々承知しています。では、なぜこのような手法を用いるのか、そのことについてはまた次回説明いたします。どうぞ、あまり真に受け取り過ぎず、ユーモアを持ってお楽しみください^^)。
* 参考文献:平野耕一「血液型より気質分析」プリズム出版


● まず最初にアンケートに答えてみましょう。



タテに自分の印した数を合計すると、いくつになりますか?
一番多かった(もしくは複数)項目の、A.B.C.D.をお読みください。
もっと知りたい方は、上記の参考文献をお読みください。



●Aサングイン(多血質)

<強さ>
太陽のような感じの人。その人がいると太陽が昇るようにその場が明るくなる。5~6人集まり、ひときわ声を張り上げてしゃべっているのは大体サングインの人。テンポが良く、会話の主導権を自然に握っている。ステージが得意で、突然任せてみても、それなりに上手に立ち振る舞える。新しい事に対しても反応が良い。

<弱さ>
本人は楽しく話しているのですが、周りをうんざリさせたり、人の話に割り込んだり、調子に乗り過ぎた発言で不快感を与えてしまうことも。楽天的で、新しいことに飛びつくが、計画性はない。実際に失敗しないと分からない。失敗しても懲りずにまた繰り返す。好きなことに集中し、嫌なことは後回し、ついに忘れてしまう。

<聖書の例>
サマリヤの女、せっかちペテロ
<有名人>
明石家さんま



●Bコレリック(胆汁質)

<強さ>
気分や感情に流されず、意志が強い。常に高いビジョンを掲げ、そこに至る道筋まで見えているタイプ。周りに反対されても、自分の意志を曲げず、むしろ闘志を燃やす。組織のリーダーに向いていて「あなたには出来るからやってみなさい」と人にも高い目標を与え、潜在能力を引き出す。人を動かす決断力と指導力がある。

<弱さ>
目標が高過ぎて理解されず孤立することも。人に対する要求も高く、着いて来られない部下を切り捨ててしまう危険性も。有能であるがゆえに確信が強く「私に従っていればいい」と支配的になりがち。自分の正当性を主張することに熱くなり、人を悪者にし、関係を壊してしまうことも。基本的に自分が正しいと思っている。

<聖書の例>
炎の伝道者パウロ
<有名人>
星野仙一



●Cメランコリック(憂鬱質)

<強さ>
明らかに天才肌が多い。アリストテレスは「すべての天才はメランコリックである」と言った。物事の本質を見抜き、突き詰め、とことん掘り下げる。完璧な仕事(作品)を追求する。サングインのように口を挟まず、コレリックのようにお説教をせず、人の話をじっくり聞き、良く考えてから、ハッとする鋭い言葉を発する。

<弱さ>
いつも「どうして、どうして」と自分を追い詰める傾向。完璧主義者であるために、なかなか満足できず喜べない。人間関係に完璧はないので、落ち込んだり、悲観的になりやすい。自分の内面にも敏感で、深く考えすぎて、うつ状態になりやすい。物事の本質を見つめるがゆえに批判的で懐疑的だと思われてしまうことも。

<聖書の例>
キリスト論の本質を突くヨハネ
<有名人>
イチロー



●Dフレグマティック(粘液質)

<強さ>
サングインでもコレリックでもメランコリックでもなく、四つの気質がバランスよくあるならフレグマティックです。これはバランスの良い気質で、極端に走らず、自分の主張を通すことより、平和な人間関係を望みます。控えめで、出過ぎず、優秀なNo2に向いています。友人が多く、人と人とを繋ぐ働きに向いている。

<弱さ>
バランス志向であるがゆえに、その人自身の主張が見えにくい。周りに順応しようとするので、思い切った改革者には向いてない。人やムーブメントをまず静観してから慎重に動くので、仲間からはもどかしく冷淡にさえ思われることも。しかし一度スイッチが入ると大きな力を発揮し、持続力がある。何事もゆっくりで慎重。

<聖書の例>
文句なしにバルナバ!
<有名人>
息の長い調和という点でスマップ



どうでしたか?当たっていると思いましたか?
違っていても、単なるウォーミングアップとご理解ください。
次回この内容を参考に、聖書から、学びをさらに深めます。
自分を知ることによって、
隣人に対する理解も、聖書の理解も更に深くなります。^^)/

2011年5月12日木曜日

ステップ3 「能力(ability)」 使徒21:37-22:9、ピリピ3:1-16

SHAPE(5ステップの頭文字)の第3ステップを学びます。前回は「能力(ability)」アンケートを行いました。リックウォレンは、人の能力は26種類に分けられると言いましたが、このテキストでは少し手を加え「31種類の種類」にまとめました。またそれに加えて「動物の学校」のたとえ話も読みました。出来れば、もう一度、あのたとえ話を読み返すことをお勧めします。

あの「動物の学校」のたとえ話には誤解があります。あの話は決して、不得意なことは投げ出して、得意分野だけに専念しなさいと教えているのではありません。その証拠に「すべての動物がすべての科目を履修していました」と最初にことわられています。彼らは自分に課せられた義務や責任をちゃんと果たしていました。その上で、彼らには特に秀でた得意分野があったのです。でも彼らはその分野に努力をするのではなく、ひたすら苦手克服に力を注いでしまいました。その結果、わずかな成果はあったものの、もともと得意なことは、人並みかそれ以下になってしまいました。神様は、人それぞれをユニークな存在として創造しておられます。そのことを無視して、他人と比べて、出来ないことばかりを気にしたり、他の人と同じようになることばかりを追い求めるのは、なんともったいないことでしょうか。誰よりも、そう造られた神様が悲しまれます。

あの話は二つのことを教えています。一つは、自分に与えられている能力を更に伸ばしなさいということです。以前も話したように「二次的な奉仕」も大切です。でも自分の得意分野には更なる投資を惜しんではいけないのです。それはきっと何かの形で、神と人との役に立つことでしょう。もう一つは、他人の能力も祝福しなさいということです。アヒル君が上手に泳げなくなった時、先生もクラスメートも「もうアヒル君の能力におびやかされることがなくなったので喜んだ」とあります。また誰にも真似でいない方法で高く飛んだワシ君は「つねに問題児とみなされて」いました。なんと不幸なことでしょうか!「その人らしさ」が「他の人とは違う」という理由だけで問題視されてしまうのです。教会はそうであってはいけません!自分に出来ないことをしていても、今までのやり方とは違っていても、その人が喜んで神と人とに仕えているなら、それを「ともに喜ぶ大らかさ」が大切です。罪悪感を与えたり、ガッカリさせたりするべきではありません。

パウロにも多くの能力が与えられていました。彼は外国で生まれたユダヤ人であり、ギリシヤ語にもヘブル語にも通じていました。そして当時の一等国民であるローマ市民権を持ちながら、パリサイ派の最高師範の一人であるガマリエルの弟子でもありました。つまりギリシヤ・ローマ人に対しても、ユダヤ人に対しても、何一つ引け目を感じることのない「選ばれた人」だったのです。しかし、かつての彼(サウロ)は、その能力を持って何をしていたでしょうか?クリスチャンを追いかけて外国まで行き、見つけ出しては引いて来て、牢(ろう)にぶち込んでいたのです。彼の能力は、神様の役にも人の役にも立ちませんでした。それどころか、教会を破壊していたのです。

彼の能力が本当に生かされたのは、自分自身に死んでからでした。後の彼はこう言っています。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています(ピリピ3:8)」。ちりあくたというのは、それらを全く無価値だと思っているということです。皮肉なものです。自分の能力に頼っている内は、本当の意味でその能力が生かされず、自分の能力のみならず、自分自身に死んだ時に、初めてその能力が永遠のために生かされるのです。それは「神の御前で誰をも誇らせない」という神の知恵によります(Ⅰコリント1:29)。聖書にはこうともあります。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって(ゼカリヤ4:6)」。

あなたにはどんな能力が与えられていますか?その能力に磨きをかけて下さい。しかしその能力にではなく、主により頼んでください。その時、あなたは、本当の意味で輝き始めるのです!

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、
わたしのために自分のいのちを失う者は、
それを救うのです。(ルカ9:24)