SHAPEの学び(5ステップの頭文字をとったもの)に入っています。前回は、その第二ステップ「情熱(Heart)」に関するアンケートを取りました。題して「こころの心電図アンケート」!自分の心が、特に何に対して反応するのか、そのことを客観的に自己分析しました。結果はいかがだったでしょうか?意外な結果だったでしょうか?それとも予想通りの結果だったでしょうか? なぜそのようなアンケートをしたのか、それは、いくら「霊的賜物」がある分野であっても、そこに「あなたのこころ」がなければ、真の「喜び」と「充足感」を得ることができないからです。
クリスチャンではありませんが、世界の黒澤こと「黒澤明監督」がこんな言葉を残しています。「自分が本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。君たちは、努力したい何かを持っているはずだ。きっとそれは、君たちの心のこもった、立派な仕事になるでしょう」。同じことがミニストリー(主のための働き)にも言えます。私たちは、それぞれ違った「こころのツボ」を与えられています。ある人にとっては「喜びのツボ」であるのに、ある人にとっては「苦痛のツボ」である場合があります(夫婦でもそうじゃないですか)。私たちは生まれながらにして、また育つ環境において、ある事柄に、特別な関心を抱くように造られて(デザインされて)いるのです。神様はそういった私たちの個性も大切にしておられます。
好きなことだけをしていればいい、と言っているのではありません。リックウォレンは、それを「二次的なミニストリー」と呼んでいます。私たちは、あまり賜物のない分野でも、キリストのからだの欠けを補うために協力しなければいけない時があります(コロサイ1:24)。教会には、いつも多くの必要が山積(さんせき)しています。また前回も引用しましたが、聖書にはこうあります。「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」。この御言葉からも、好きなことだけをしていれば良いのではない、ということが分かるでしょう。特に、日本の教会は小さく、一人の信徒や牧師がいくつもの役割(奉仕やミニストリー)を兼ねなければいけない場合があります。その点において、日本ではこの二次的ミニストリーがより重要だともいえます。
しかし、好きなことに打ち込むことは、何も悪いことではありません。戦後のキリスト教は、欧米のピューリタン(清教徒)の影響を多分に受けていて、非常に禁欲的なところがありました。トランプはダメ、喫茶店はダメ、映画はダメ…。そして、自分の趣味でさえも「罪」だとみなす傾向がありました。それが100%間違いでもなく、もしその趣味が、神様や礼拝よりも大事なってしまったら、やはりそれは「罪(偶像)」でしょう。しかし、だからといって「趣味自体が罪」だというのは、やはり極端だと言わざるをえません。むしろ私たちは、その趣味さえも主にささげて、それを「福音宣教」のために活かすことはできないでしょうか?教会の中だけにいたら、いったい誰に伝道するでしょうか?むしろ私たちは、趣味を通じて積極的に人間関係を作り、じっくり、少しずつ、証しをしていくのです。また教会でもカルチャークラスを通して神の愛を伝えます。
大切なのは目的です。好きなことを、ただ自分の満足のためだけにするのは、神様を愛する者にとっては空しいものです。またそれが行き過ぎて、優先順位を間違えると罪となります。大切なのは、神の国とその義とをまず第一とすること(マタイ6:33)、そして、その好きなこと(趣味や特技)を通して、神と人とを愛し、神と人とに仕えることです(マタイ22:37-40)。その時、あなたは、本当の充足感を味わうことでしょう。そして、証しが、驚くほど喜びとなるのです!
あなたが知らず知らずのうちに、夢中になってしまうことは何ですか?それをどのように、神と人とのために役立てることができますか?もう一度祈り、磨きをかけ、心から喜んで神と人とに仕えることができますように。神様は何をするかではなく、あなたの「心」に興味があるのです。
そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。』(37)
これがたいせつな第一の戒めです。」(38)
(マタイ22章37-38節)
ひとりひとり、
いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
(Ⅱコリント9章7節)
2011年4月14日木曜日
2011年3月22日火曜日
ステップ1「霊的賜物(Spiritual gift)」 Ⅰコリント9章16-17節 ローマ12章4-8節
いよいよ前回から5ステップ(SHAPE)の学びに入っています。SHAPEとは、それぞれのステップ・テーマの頭文字を合わせたものです。前回は(ウェブにはアップしていませんが)「霊的賜物(Spiritual gift)アンケート」を行いました。95の質問に答えることによって、客観的に自分の霊的な賜物を発見することがその目的でした。賜物の種類は以下の聖書箇所をもとに(ローマ12章、Ⅰコリント12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章)、重複するものはまとめて「19」に分けました。「預言」「牧会」「教えること」「知恵」「知識」「勧め」「霊を見分ける」「分け与える」「助ける」「慈善」「伝道者」「信仰」「リーダーシップ」「管理運営」「奇跡」「いやし」「異言」「異言の解き明かし」「使徒」。結果がいかがでしたでしょうか?
「御霊の賜物」と「御霊の実」の重要性。福音派の教会では、なぜか御霊の賜物よりも、御霊の実(ガラテヤ5章)が重んじられる傾向があります。それには理由があります。確かに聖書には、Ⅰコリント12章で御霊の賜物のリストが紹介されたのち「更なる道を示して上げましょう(12:31)」と「愛の賛歌」が続いているのです。つまり、どんなに賜物に富んでいても「愛がないなら何の値打もないのです(13:2)」。だからと言って、御霊の賜物を軽んじてはいけません(Ⅰテモテ4:14)。それどころか聖書には「あなた方のうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい(Ⅱテモテ1:6)」とも記されています。この聖霊の賜物は、教会が健全な形で建て上げられるためにも、またその教会がいのちにあふれ、力強く前進するためにも、必要不可欠な要素なのです。
しかも、その賜物がバランス良く与えられていることが大切です。私たちは教会に「この賜物は欲しいけど、この賜物はいらない」とは言えないのです(Ⅰコリント12:21)。それなのに、多くのキリスト教会では、一部の賜物は強調するものの、一部の賜物についてはほとんど語っていないのが現状です。もし主が、本当に「私たちの教会に息を吹き込まれるなら(エゼキエル37章)」私たちの教会は、想像しているのとは全然違う教会になるかもしれません。私たちには、聖霊がなされることをそのまま受け入れる心の準備ができているでしょうか?自分が知らないことや、見たことや聞いたことがないことが起きても、主にあって一致することができるでしょうか?
聖霊の賜物には、二つの注意が必要です。一つは「妬み」です。この問題は前にもふれましたが、自分にない賜物を他の人が持っていると生じます。自覚はなくても、なぜが対立してしまう人との間にはこの問題が存在する場合があります。もう一つは「賜物投影(とうえい)」です。聞きなれない言葉かもしれませんがリックウォレンはこう説明します。「このことは非常に多く起きることであり、教会内に多くのトラブルをもたらす要因となります。それは他の人にも自分と同じような仕え方を期待したり、同じような結果を出すことを要求したりする態度のことです(73)」。兄弟姉妹に対して「何でもっとこういうやり方をしないのか」「なぜこんなに簡単なこと出来ないのだろうか」とイライラすることがその症状です。そう感じる時は、あなたにはそうできる「賜物」が与えられていることを感謝しましょう。他の人に、同じことを要求してはいけません。
賜物がないことを言い訳にしてはいけません。例えば、伝道の賜物のない人は伝道しなくてもいいのでしょうか?いいえ、聖書には「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら報いがありましょう。しかし強いられたにしても私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」とあります。全てのクリスチャンには、大宣教命令が与えられているのです。また慈善の賜物がなければ、困った人がいても無視して良いのでしょうか?いいえ、できることには個人差があるかもしれませんが、それでも自分に出来ることを、心を込めてすることは大切なことなのです。先日(2011年3月11日)東日本大震災が起こりましたが、いま、私たちの愛が試されています!
改めて、あなたの霊的な賜物は何でしょうか?どうかその賜物を燃え立たせて、神と人とに、熱く仕えることができますように。多く任された人は、多く要求されるのです(ルカ12:48)。また賜物のない分野にも、勇気を持ってチャレンジしてみましょう。新しい世界が開けるかもしれませんし、賜物の少ない分、余計に神様の力を多く、体験することができるかもしれません。
もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。
しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
(Ⅰコリント9章17節)
モーセは主に申し上げた。
「ああ主よ。私はことばの人ではありません。
以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。
私は口が重く、舌が重いのです。」
主は彼に仰せられた。
「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、
あなたの言うべきことを教えよう。」
(出エジプト4章10、11、12節 要約)
「御霊の賜物」と「御霊の実」の重要性。福音派の教会では、なぜか御霊の賜物よりも、御霊の実(ガラテヤ5章)が重んじられる傾向があります。それには理由があります。確かに聖書には、Ⅰコリント12章で御霊の賜物のリストが紹介されたのち「更なる道を示して上げましょう(12:31)」と「愛の賛歌」が続いているのです。つまり、どんなに賜物に富んでいても「愛がないなら何の値打もないのです(13:2)」。だからと言って、御霊の賜物を軽んじてはいけません(Ⅰテモテ4:14)。それどころか聖書には「あなた方のうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい(Ⅱテモテ1:6)」とも記されています。この聖霊の賜物は、教会が健全な形で建て上げられるためにも、またその教会がいのちにあふれ、力強く前進するためにも、必要不可欠な要素なのです。
しかも、その賜物がバランス良く与えられていることが大切です。私たちは教会に「この賜物は欲しいけど、この賜物はいらない」とは言えないのです(Ⅰコリント12:21)。それなのに、多くのキリスト教会では、一部の賜物は強調するものの、一部の賜物についてはほとんど語っていないのが現状です。もし主が、本当に「私たちの教会に息を吹き込まれるなら(エゼキエル37章)」私たちの教会は、想像しているのとは全然違う教会になるかもしれません。私たちには、聖霊がなされることをそのまま受け入れる心の準備ができているでしょうか?自分が知らないことや、見たことや聞いたことがないことが起きても、主にあって一致することができるでしょうか?
聖霊の賜物には、二つの注意が必要です。一つは「妬み」です。この問題は前にもふれましたが、自分にない賜物を他の人が持っていると生じます。自覚はなくても、なぜが対立してしまう人との間にはこの問題が存在する場合があります。もう一つは「賜物投影(とうえい)」です。聞きなれない言葉かもしれませんがリックウォレンはこう説明します。「このことは非常に多く起きることであり、教会内に多くのトラブルをもたらす要因となります。それは他の人にも自分と同じような仕え方を期待したり、同じような結果を出すことを要求したりする態度のことです(73)」。兄弟姉妹に対して「何でもっとこういうやり方をしないのか」「なぜこんなに簡単なこと出来ないのだろうか」とイライラすることがその症状です。そう感じる時は、あなたにはそうできる「賜物」が与えられていることを感謝しましょう。他の人に、同じことを要求してはいけません。
賜物がないことを言い訳にしてはいけません。例えば、伝道の賜物のない人は伝道しなくてもいいのでしょうか?いいえ、聖書には「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら報いがありましょう。しかし強いられたにしても私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」とあります。全てのクリスチャンには、大宣教命令が与えられているのです。また慈善の賜物がなければ、困った人がいても無視して良いのでしょうか?いいえ、できることには個人差があるかもしれませんが、それでも自分に出来ることを、心を込めてすることは大切なことなのです。先日(2011年3月11日)東日本大震災が起こりましたが、いま、私たちの愛が試されています!
改めて、あなたの霊的な賜物は何でしょうか?どうかその賜物を燃え立たせて、神と人とに、熱く仕えることができますように。多く任された人は、多く要求されるのです(ルカ12:48)。また賜物のない分野にも、勇気を持ってチャレンジしてみましょう。新しい世界が開けるかもしれませんし、賜物の少ない分、余計に神様の力を多く、体験することができるかもしれません。
もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。
しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
(Ⅰコリント9章17節)
モーセは主に申し上げた。
「ああ主よ。私はことばの人ではありません。
以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。
私は口が重く、舌が重いのです。」
主は彼に仰せられた。
「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、
あなたの言うべきことを教えよう。」
(出エジプト4章10、11、12節 要約)
2011年3月2日水曜日
「超教派のなかで自分の賜物を活かす」 使徒13:1-3、14:26-27、Ⅱテモテ4:1-5
前回はキリストのからだ(教会)を通じて、自分の賜物を輝かせることを中心に学びました。その原則に変わりはありませんが、賜物活用の場は教会の中だけに限られるわけではありません。教会の外にも、教団や超教派などの働きがあります。そこには同じ年代や同じ趣味の人、そして賜物豊かな人々が、様々な教団教派から集まり、協力して宣教をしています。身近なところではKGK(キリスト者学生会)やCCC(キャンパスクルセード)Hi-B-A(高校生伝道団体)また最近ではゴスペルの働きも盛んです。そこでは地域教会とは一味違う出会いや楽しみもあるかもしれません。私たちは一体どのように、そういった超教派団体と関わっていけばよいのでしょうか?
そもそも教会とは何でしょうか?それは教会堂(建物)ではなく、信徒の集まりのことです。また更に大きく二つに分けられます。一つは地域教会です。可視的な教会とも言われますが、地域に密着し、礼拝と聖礼典(聖餐式と洗礼式)を行い、交わりをともにしている信徒の群れのことです。もう一つは世界大の教会です。これは不可視的な教会とも言われますが、世界に散らばっているクリスチャンを総称して教会と呼ぶのです。ちなみに使徒信条の「聖なる公同の教会」とは後者のことです。私たちは地域教会の会員でありながら、この公同の教会にも属しているのです。
身近なところからという原則。イエス様は「世界人類が平和でありますように」ではなく「あなたの隣人を愛せよ」と教えられました。また人々の間に住み、言葉と行いをもって愛を示され、十字架でいのちを捨てて下さいました。時々「私は世界大の教会に属していますから、特定の教会の会員にはなりません」という人がいますが、残念な言葉です。自由でいたくて束縛されないということでしょうか?確かに、ひとつの教会に属するのは責任を伴うことでもあります。しかし、そういった現実の中で、互いに仕え、愛し合うことにより、私たちはキリストの愛を学んでいくのです。愛することは互いに属すること。私たちは主にあって、一つのからだなのです!
地域教会あっての超教派です。アンテオケ教会は、聖霊によって示され、祈り、按手し、パウロとバルナバを異邦人宣教に派遣しました(使徒13:2-3)。そして彼らは帰ってくると真っ先にアンテオケ教会に報告しました(14:26-27)。彼らは、深く繋がっていました。よく超教派か地域教会かという議論がありますが、どちらも大切です。確かに地方の教会では人手が足りず、数少ない若い人には期待するところも大きいでしょう。しかし、聖霊によって示されるなら、彼らを地域教会の中だけに留めておくのではなく、祈り、励まし、思い切って遣わそうではありませんか。受けるよりも与える方が幸いなのです。また遣わされる側も、教会によって派遣されていることを自覚し、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝え(Ⅱテモテ4:2)、教会への報告(アカウンタビリティー)を大切にしたいものです。活動の幅を広げれば広げるほど、根っこを大切にするのです。
気ままな信仰に気をつけなさい。上記のような地域教会との繋がりがおろそかにされるとき、その働きは祝福を失ってしまいます。そして自分に都合のいいことを言ってもらうために、教師や地域教会を渡り歩く「教会難民」を生み出してしまいます(Ⅱテモテ4:3-4)。また万が一、地域教会を軽んじたり、批判したりする団体(働き人)があったら、そこからはすぐに離れなさい。どんなに魅力的であっても、それは主から出たミニストリーではありません。確かに完璧な教会はありません。しかし私たちは、その欠けを満たすために存在しているのです。聖書にはこうあります。「ですから私は、…キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロサイ1:24)」。
あなたは教団や超教派の働きに関わっていますか?聖霊の導きを求めつつ、あなたの賜物が、教団や超教派の中でも豊かに輝きますように。それと同時に、あなたの母教会を、ますます愛することができますように。主の言葉と教会にしっかり深く根差す時に、大きな花が咲くのです。
彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、
わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
そこで彼らは、断食と祈りをして、
ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
(使徒13:2-3)
そもそも教会とは何でしょうか?それは教会堂(建物)ではなく、信徒の集まりのことです。また更に大きく二つに分けられます。一つは地域教会です。可視的な教会とも言われますが、地域に密着し、礼拝と聖礼典(聖餐式と洗礼式)を行い、交わりをともにしている信徒の群れのことです。もう一つは世界大の教会です。これは不可視的な教会とも言われますが、世界に散らばっているクリスチャンを総称して教会と呼ぶのです。ちなみに使徒信条の「聖なる公同の教会」とは後者のことです。私たちは地域教会の会員でありながら、この公同の教会にも属しているのです。
身近なところからという原則。イエス様は「世界人類が平和でありますように」ではなく「あなたの隣人を愛せよ」と教えられました。また人々の間に住み、言葉と行いをもって愛を示され、十字架でいのちを捨てて下さいました。時々「私は世界大の教会に属していますから、特定の教会の会員にはなりません」という人がいますが、残念な言葉です。自由でいたくて束縛されないということでしょうか?確かに、ひとつの教会に属するのは責任を伴うことでもあります。しかし、そういった現実の中で、互いに仕え、愛し合うことにより、私たちはキリストの愛を学んでいくのです。愛することは互いに属すること。私たちは主にあって、一つのからだなのです!
地域教会あっての超教派です。アンテオケ教会は、聖霊によって示され、祈り、按手し、パウロとバルナバを異邦人宣教に派遣しました(使徒13:2-3)。そして彼らは帰ってくると真っ先にアンテオケ教会に報告しました(14:26-27)。彼らは、深く繋がっていました。よく超教派か地域教会かという議論がありますが、どちらも大切です。確かに地方の教会では人手が足りず、数少ない若い人には期待するところも大きいでしょう。しかし、聖霊によって示されるなら、彼らを地域教会の中だけに留めておくのではなく、祈り、励まし、思い切って遣わそうではありませんか。受けるよりも与える方が幸いなのです。また遣わされる側も、教会によって派遣されていることを自覚し、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝え(Ⅱテモテ4:2)、教会への報告(アカウンタビリティー)を大切にしたいものです。活動の幅を広げれば広げるほど、根っこを大切にするのです。
気ままな信仰に気をつけなさい。上記のような地域教会との繋がりがおろそかにされるとき、その働きは祝福を失ってしまいます。そして自分に都合のいいことを言ってもらうために、教師や地域教会を渡り歩く「教会難民」を生み出してしまいます(Ⅱテモテ4:3-4)。また万が一、地域教会を軽んじたり、批判したりする団体(働き人)があったら、そこからはすぐに離れなさい。どんなに魅力的であっても、それは主から出たミニストリーではありません。確かに完璧な教会はありません。しかし私たちは、その欠けを満たすために存在しているのです。聖書にはこうあります。「ですから私は、…キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロサイ1:24)」。
あなたは教団や超教派の働きに関わっていますか?聖霊の導きを求めつつ、あなたの賜物が、教団や超教派の中でも豊かに輝きますように。それと同時に、あなたの母教会を、ますます愛することができますように。主の言葉と教会にしっかり深く根差す時に、大きな花が咲くのです。
彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、
わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
そこで彼らは、断食と祈りをして、
ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
(使徒13:2-3)
2011年2月24日木曜日
「あなたのチームワーク力は何点?」 ローマ12章3-16節、Ⅰコリント3章1-7節
「あなたの賜物が輝く5ステップ」と題して学びを進めていますが、まだその5ステップに入っていません。その前の段階の学びに力を注いでいます。なぜなら、これが単なる自己啓発のセミナーとは違うからです。「この12回のセミナーを受けたらあなたの賜物が見つかります」「この講義を最後まで受けたらあなたの人生が変わります」という宣伝文句が巷(ちまた)には溢れています。確かに、お手軽で分かりやすいでしょう。でも信仰はハウトゥー(How to)ではありません。どんなに分かりにくくても、まわりくどくても、まずはしっかりと聖書に聞くことから始めるのが信仰です。「何のための賜物なのか」「その賜物はどのように用いられる性質のものなのか」そういう「そもそも論」こそが大切なのです。今日学ぶのは「チームワーク力」についてです。
個人で活躍するアーティストは、自分の賜物を輝かせ、自分の名を売ることに全神経を注ぐでしょう。それが仕事なのですから仕方がありません。しかしクリスチャンは、キリストのからだ(教会)の一員として「チームを通し」かしらなるキリスト(エペソ5:23)の栄光を現すのです。聖書にはこうあります。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです(ローマ12:5)」。心臓や肝臓や腎臓が、それぞれ目立とうとして「見て見て」と手を振るでしょうか?臓器が過度な自己主張をし始めたら、それは病気のしるしです。
チームワークが大切です。確かにからだには、器用な手とか、走れる足とか、上手に歌える唇とか、目立つ器官もあります。目立つこと自体が悪いのではありません。でもそれであっても、目に見えない器官に支えられており、からだから切り離されたら、何の役にも立たないのです。一人だけで目立とうとすることは何と滑稽なことでしょうか?つまりこういうことです。「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『私はあなたを必要としない』と言うこともできません(Ⅰコリント12:21)」。私たちは互いに互いを必要としており、キリストのからだにあっては、弱くて目立たない器官こそが大切なのです。
個人の力ではなく、からだ全体で栄光を表すことが大切です。コリント教会は、非常に賜物豊かな教会でしたが、ねたみや争いが絶えず、「私はパウロにつく」「私はアポロに」と縄張り争いに明け暮れ、教会をバラバラにしてしまいました。そんな分断された「からだ」を通して、キリストの栄光が現れるでしょうか?絶対にそんなことはありません!聖書にはこうあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです(Ⅰヨハネ4:12)」。結局のところ、賜物の多さによってではなく、愛のある交わりによって、キリストの栄光は現れるのです。ビジョン達成のためとか、自分が輝くために、弱い人を切り捨てるようなことがあってはいけません。聖書には「身分の低い者に順応しなさい(ローマ12:10)」とありますが、これは「交わりなさい」という意味でもあります。弱い人を切り捨てて、輝くような栄光は、本当の輝きではありません。
また主の働きはリレーのようなものです。リレーのバトンは、途中で放り投げても、握りしめ過ぎてもだめです。タイミング良く次の人に渡すことが大切です。奉仕も同じではないでしょうか?無責任に投げ出しても、自分ひとりで握りしめてもダメなのです。チームの勝利のためには上手なバトンタッチが必要です。渡されたバトンはしっかり握り、自分の役割を全力で果たしつつも、時が来たら次の人とも一緒に走り(育て)、最後はいさぎよくバトンを渡す(自立させる)のです。いつまでも自分の「活躍」ばかりを願ったら、チームを台無しにしてしまいます。パウロは言います。「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです(Ⅰコリント3:6-7)」。
あなたのチームワーク力は何点でしょうか?あなたの賜物は、チームの中でこそ本来の輝きを放つのです。チームプレーができなければ、いくら素晴らしい賜物も有害無益となってしまいます。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって
互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12章10節)
個人で活躍するアーティストは、自分の賜物を輝かせ、自分の名を売ることに全神経を注ぐでしょう。それが仕事なのですから仕方がありません。しかしクリスチャンは、キリストのからだ(教会)の一員として「チームを通し」かしらなるキリスト(エペソ5:23)の栄光を現すのです。聖書にはこうあります。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです(ローマ12:5)」。心臓や肝臓や腎臓が、それぞれ目立とうとして「見て見て」と手を振るでしょうか?臓器が過度な自己主張をし始めたら、それは病気のしるしです。
チームワークが大切です。確かにからだには、器用な手とか、走れる足とか、上手に歌える唇とか、目立つ器官もあります。目立つこと自体が悪いのではありません。でもそれであっても、目に見えない器官に支えられており、からだから切り離されたら、何の役にも立たないのです。一人だけで目立とうとすることは何と滑稽なことでしょうか?つまりこういうことです。「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『私はあなたを必要としない』と言うこともできません(Ⅰコリント12:21)」。私たちは互いに互いを必要としており、キリストのからだにあっては、弱くて目立たない器官こそが大切なのです。
個人の力ではなく、からだ全体で栄光を表すことが大切です。コリント教会は、非常に賜物豊かな教会でしたが、ねたみや争いが絶えず、「私はパウロにつく」「私はアポロに」と縄張り争いに明け暮れ、教会をバラバラにしてしまいました。そんな分断された「からだ」を通して、キリストの栄光が現れるでしょうか?絶対にそんなことはありません!聖書にはこうあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです(Ⅰヨハネ4:12)」。結局のところ、賜物の多さによってではなく、愛のある交わりによって、キリストの栄光は現れるのです。ビジョン達成のためとか、自分が輝くために、弱い人を切り捨てるようなことがあってはいけません。聖書には「身分の低い者に順応しなさい(ローマ12:10)」とありますが、これは「交わりなさい」という意味でもあります。弱い人を切り捨てて、輝くような栄光は、本当の輝きではありません。
また主の働きはリレーのようなものです。リレーのバトンは、途中で放り投げても、握りしめ過ぎてもだめです。タイミング良く次の人に渡すことが大切です。奉仕も同じではないでしょうか?無責任に投げ出しても、自分ひとりで握りしめてもダメなのです。チームの勝利のためには上手なバトンタッチが必要です。渡されたバトンはしっかり握り、自分の役割を全力で果たしつつも、時が来たら次の人とも一緒に走り(育て)、最後はいさぎよくバトンを渡す(自立させる)のです。いつまでも自分の「活躍」ばかりを願ったら、チームを台無しにしてしまいます。パウロは言います。「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです(Ⅰコリント3:6-7)」。
あなたのチームワーク力は何点でしょうか?あなたの賜物は、チームの中でこそ本来の輝きを放つのです。チームプレーができなければ、いくら素晴らしい賜物も有害無益となってしまいます。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって
互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12章10節)
2011年2月17日木曜日
「輝くための 断捨離(だんしゃり)」 ピリピ3章7-16節
前回私たちはタラントのたとえから学びました。主人は、5タラントをもとに、5タラントもうけたしもべに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:21)」。これをマラソン競技にもたとえてみましょう。私たちは、いったいどうしたら、神様に「良くやった忠実なしもべだ」と喜ばれ、主からの栄冠(金メダル)をいただくことができるのでしょうか?少なくとも順位の問題ではありません。私たちが与えられたタラント(賜物・能力)に忠実に努力するならば、誰でも金メダルなのです。でももし、捨てるべきものを捨てないで、大きな荷物を抱えたまま走ったとしたら、こう言われてしまうのではないでしょうか?「○○さん、あなたはもっと速く走れたのではないですか?あなたにはその能力(タラント)があったはずです」。
いくつかの聖書箇所を読みましょう。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…兄弟たちよ。私は、…うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ3:8-14)」。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブル12:1-3)」。これだけ見ても、いかに信仰において「捨てること」が大切なのかがよく分かります。ペテロも網を捨ててイエス様についていきましたし、アブラハムもイサクを捧げたではありませんか!
リックウォレンもこう言っています。「ある人にとって、今このステップを踏み込む必要があるのかもしれません。ミニストリー以外のもので人生が占められているために、ミニストリーに関われずにいる場合があります。…あれもこれもと欲張っていては、成果は上がりません。もし真剣に神様に仕えたいと願っているならば、自分の人生を振り返り、何かを削ってみる必要があるのです。何かを取り除かなければ、新しいものを加えることはできません。自分の生活から、何を取り除く必要があるのでしょうか。…人生において、大切なものが分かったら、それを自分の人生の中に取り入れるために、それほど重要でないものを、まず取り除く必要があるのです。(p32)」。
本当に、神様(ミニストリー)のために、余裕がないのでしょうか?私たちは時々、神様のためには時間を惜しみながら、重要でないことのために時間を浪費している場合があります。テレビ、ゲーム、インターネットなどなど。また時には止めたいと思っている悪習慣にとらわれて、自分のエネルギーを浪費している場合もあります。その他にも「まつわりつく罪」や「過去」が足かせになって、一生懸命に走ろうと思えば思うほど疲れ果ててしまう場合もあります。私たちは神様のために走れないのではないのです。そうではなくて、捨てるべきものを、その都度しっかり捨てていないから、走れないし、前にも進めないのです。まずは、思い切って捨てることが肝心です!
金持ちの青年は捨てられませんでした。「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)」。結局のところ、彼が捨てられなかったのは、彼の財産ではなくて、プライドだったのではないでしょうか?なぜ彼は「不信仰な私を許して下さい。主よ、こんな私でも、あなたにいてきたいのです!」と涙ながらに訴えることができなかったのでしょうか?イエス様が、本当に求めていたのは、そういった、砕かれた悔いた心だったのではないでしょうか(詩篇51:17)。
今日、あなたが「棄て去るべきもの」は何でしょうか?もう一度、自分の人生を振り返ってみましょう。あなたの賜物が輝くために、まずその障害物が、取り除かれる必要があるのです。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、
それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3章8節)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
(マタイ16章24-25節)
いくつかの聖書箇所を読みましょう。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…兄弟たちよ。私は、…うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ3:8-14)」。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブル12:1-3)」。これだけ見ても、いかに信仰において「捨てること」が大切なのかがよく分かります。ペテロも網を捨ててイエス様についていきましたし、アブラハムもイサクを捧げたではありませんか!
リックウォレンもこう言っています。「ある人にとって、今このステップを踏み込む必要があるのかもしれません。ミニストリー以外のもので人生が占められているために、ミニストリーに関われずにいる場合があります。…あれもこれもと欲張っていては、成果は上がりません。もし真剣に神様に仕えたいと願っているならば、自分の人生を振り返り、何かを削ってみる必要があるのです。何かを取り除かなければ、新しいものを加えることはできません。自分の生活から、何を取り除く必要があるのでしょうか。…人生において、大切なものが分かったら、それを自分の人生の中に取り入れるために、それほど重要でないものを、まず取り除く必要があるのです。(p32)」。
本当に、神様(ミニストリー)のために、余裕がないのでしょうか?私たちは時々、神様のためには時間を惜しみながら、重要でないことのために時間を浪費している場合があります。テレビ、ゲーム、インターネットなどなど。また時には止めたいと思っている悪習慣にとらわれて、自分のエネルギーを浪費している場合もあります。その他にも「まつわりつく罪」や「過去」が足かせになって、一生懸命に走ろうと思えば思うほど疲れ果ててしまう場合もあります。私たちは神様のために走れないのではないのです。そうではなくて、捨てるべきものを、その都度しっかり捨てていないから、走れないし、前にも進めないのです。まずは、思い切って捨てることが肝心です!
金持ちの青年は捨てられませんでした。「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)」。結局のところ、彼が捨てられなかったのは、彼の財産ではなくて、プライドだったのではないでしょうか?なぜ彼は「不信仰な私を許して下さい。主よ、こんな私でも、あなたにいてきたいのです!」と涙ながらに訴えることができなかったのでしょうか?イエス様が、本当に求めていたのは、そういった、砕かれた悔いた心だったのではないでしょうか(詩篇51:17)。
今日、あなたが「棄て去るべきもの」は何でしょうか?もう一度、自分の人生を振り返ってみましょう。あなたの賜物が輝くために、まずその障害物が、取り除かれる必要があるのです。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、
それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3章8節)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
(マタイ16章24-25節)
2011年2月10日木曜日
「1タラントに込められた、主人の思い!」 マタイ25章14-30節
賜物について語るのに、避けては通れない聖書箇所があります。それが今回お読みする「タラントのたとえ」です。タラントは、ご存知のように「タレント(特別な能力や才能)」の語源となっている言葉です。話の中の主人は旅に出る際、しもべたち呼んで、それぞれの能力に応じて財産を預けられました。一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラント。いったいこれは何を意味しているのでしょうか?主は私たちに、何を期待しておられるのでしょうか?
いきなり話はそれますが、平等と何でしょう?少し前の話です。ある小学校の運動会で、負けがでないように、わざと全員一緒にゴールさせたそうです。それが本当の平等でしょうか?もちろん違います。今日の箇所にもはっきり書かれていますが、預けられるタラントは人それぞれ違います。また別の聖書の箇所にも「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。生まれ待った能力には差があります。それを受け入れることも大切な勉強です。大切なのは、自分が預かっているそのタラントを受け入れ、それを出来るだけ伸ばす(活用する)ことです。そういったチャンスを平等に与えられるのが、本当の平等です。
タラントの多少はその人の価値とはまったく関係がありません。神様は私たちの能力に応じて、タラントを預けられますが、その能力でさえも、神様から一方的な恵みによって与えられたものです。またタラントに至っては、主の栄光を表す目的のために一時的に預かっているにすぎないのです。聖書にはこうあります。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい(ロマ12:3)」。
そもそもなぜ主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、それは銀行に預けておくことだって出来たのです。その方がリスクは少なく利息だって付きました。でも主人はあえて彼らを信用し、権限を与え、自由に(*)やらせてみたかったのです。彼らの成長を願い、たとえ失敗したとしても、自分の頭で考え、大胆にチャレンジしてほしかったのです。これが神様の愛です。神様の御心は、私たちが言われたことだけをするロボットのように生きることではなく、自由と冒険に満ちた生涯を送ることなのです。(*自由とアカウンタビリティーについてはまた改めて)
1タラントのしもべは、そんな主人の信頼(愛)を全く理解していませんでした。そしてこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いて主人はどんなに悲しかったことでしょうか…。しかも、このしもべが「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、ここまで主人を悪く言ったのだとしたら…。箴言にはあります「なまけ者は言う『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』(22:13)」。
最大の過ちは、彼が主人の家の繁栄をともに喜べず、自分のことばかりにこだわっていたことです。内心、面白くなかったのかもしれません。「どうせ儲けたお金も主人のものなんだから頑張るだけ損だ」「なんであいつが5タラントで、あいつが2タラントで、俺が1タラントなんだ?」etc。1タラントとは6000日分の日当です。それだけでも十分な大金です。でも十分でも、人と比べたとたんに「これっぽっち」と感じてしまうのです。不平不満は心の病です。そこから愚かな行動が生まれ、とげのある言葉が生まれ、結局、持っているものまで失ってしまうのです。忘れてはいけません。私たちは主のしもべであり、その家(御国)の繁栄は私たちの祝福でもあるのです。誰が活躍したかは関係ありません。主が喜ばれるなら、それが私たちの喜びでもあるのです。
神様はあなたのことを、ひとり子を与えても惜しくないと思うほど、愛しておられます。その神様が、あなたに十分なタラントを預けていて下さいます。たとえそれが1タラントでも、私たちには十分なのです。大切なのは、私たちがそれに感謝し、神様の栄光(繁栄)を願い、何事にもチャレンジしてみることです。結果はどうであれ、神様はあなたの「チャレンジ報告」を待っておられ、あなたと一緒に喜びたいのです!
『よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21
いきなり話はそれますが、平等と何でしょう?少し前の話です。ある小学校の運動会で、負けがでないように、わざと全員一緒にゴールさせたそうです。それが本当の平等でしょうか?もちろん違います。今日の箇所にもはっきり書かれていますが、預けられるタラントは人それぞれ違います。また別の聖書の箇所にも「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。生まれ待った能力には差があります。それを受け入れることも大切な勉強です。大切なのは、自分が預かっているそのタラントを受け入れ、それを出来るだけ伸ばす(活用する)ことです。そういったチャンスを平等に与えられるのが、本当の平等です。
タラントの多少はその人の価値とはまったく関係がありません。神様は私たちの能力に応じて、タラントを預けられますが、その能力でさえも、神様から一方的な恵みによって与えられたものです。またタラントに至っては、主の栄光を表す目的のために一時的に預かっているにすぎないのです。聖書にはこうあります。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい(ロマ12:3)」。
そもそもなぜ主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、それは銀行に預けておくことだって出来たのです。その方がリスクは少なく利息だって付きました。でも主人はあえて彼らを信用し、権限を与え、自由に(*)やらせてみたかったのです。彼らの成長を願い、たとえ失敗したとしても、自分の頭で考え、大胆にチャレンジしてほしかったのです。これが神様の愛です。神様の御心は、私たちが言われたことだけをするロボットのように生きることではなく、自由と冒険に満ちた生涯を送ることなのです。(*自由とアカウンタビリティーについてはまた改めて)
1タラントのしもべは、そんな主人の信頼(愛)を全く理解していませんでした。そしてこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いて主人はどんなに悲しかったことでしょうか…。しかも、このしもべが「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、ここまで主人を悪く言ったのだとしたら…。箴言にはあります「なまけ者は言う『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』(22:13)」。
最大の過ちは、彼が主人の家の繁栄をともに喜べず、自分のことばかりにこだわっていたことです。内心、面白くなかったのかもしれません。「どうせ儲けたお金も主人のものなんだから頑張るだけ損だ」「なんであいつが5タラントで、あいつが2タラントで、俺が1タラントなんだ?」etc。1タラントとは6000日分の日当です。それだけでも十分な大金です。でも十分でも、人と比べたとたんに「これっぽっち」と感じてしまうのです。不平不満は心の病です。そこから愚かな行動が生まれ、とげのある言葉が生まれ、結局、持っているものまで失ってしまうのです。忘れてはいけません。私たちは主のしもべであり、その家(御国)の繁栄は私たちの祝福でもあるのです。誰が活躍したかは関係ありません。主が喜ばれるなら、それが私たちの喜びでもあるのです。
神様はあなたのことを、ひとり子を与えても惜しくないと思うほど、愛しておられます。その神様が、あなたに十分なタラントを預けていて下さいます。たとえそれが1タラントでも、私たちには十分なのです。大切なのは、私たちがそれに感謝し、神様の栄光(繁栄)を願い、何事にもチャレンジしてみることです。結果はどうであれ、神様はあなたの「チャレンジ報告」を待っておられ、あなたと一緒に喜びたいのです!
『よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21
2011年2月3日木曜日
「あがめられるため」 Ⅰペテロ4章7-11節、マタイ28章16-20節
前回は「人に仕えること(しもべの心)」と題して学びました。世の中で自分の才能とは、自分の徳を高め、人に仕えられる立場に上り詰めるために活用するものでしょう。そしてそれが私たちの頑張るモチベーション(動機)でもあります。でも聖書の価値観はまったく違います。私たちは、「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい(Ⅰペテロ4章10節)」と言われているのです。これは驚きです。そしてこれこそ、聖書のユニークな(他とは違う)教えなのです。今日は、もう一つの大切なことについて学びたいと思います。
それは「神様に仕えること」です。前回、神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるとお話ししました。その通りです。でも今回は、より「神様」に強調点を移して学びたいと思います。Ⅰペテロの御言葉には続きがあります。長いですが引用しましょう。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン(4:7-11)」。ここにある通り、私たちの賜物は「互いに仕え合う」と同時に「主の御名があがめられるため」に用いられるべきものなのです。この「あがめられる」(ギ:doxazo、英:magnify)とは、「自分ではなく」「神様を大いなる方とする」ことです。
また賜物は「教会の徳を高めるために」用いられるべきものです。Ⅰコリントにはこうあります。「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい(14:12)」。これは異言の賜物が、礼拝の中でどのように語られるべきかを説明している箇所です。パウロは「何が教会の徳を高めるのか、という視点にたって判断しなさい」と教えています。なぜでしょうか?それは、「賜物」には、どうしても「自尊心をくすぐる要素」があるからです。私たちは、それをもって「自分を大きく見せたくなってしまう」のです。でも、そんなことをして「教会の徳は高まる」でしょうか?いいえ!自分を大きく見せようとすればするほど、対立が生まれてしまうのです。
コリントの教会は「御霊の賜物」が豊かに与えられた教会でした。でもその反面、党派心が強く、分裂分派が絶えない教会でもありました。なぜでしょうか?それは、みんなが「自分の賜物を誇り」「自分を大きく見せようとしていたから」です。私たちは、賜物の良い管理者として、その賜物を、「主の御名があがめられ」「教会の徳を高めるため」に用いるべきなのです。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、その賜物が原因で、教会に混乱が起っては何にもならないのです。
また賜物とは「宣教」のために用いられるべきものです。このことは何度も登場しますが、強調し過ぎることはありません。なぜならこのことは放っておくと、すぐに第二第三になり、やがて忘れ去られてしまうからです。私たちが救われたのは宣教するためです(Ⅰペテロ2:9)!人が「神のかたち」に似せてつくられた時、神様は命じられました。「生めよ、増えよ、地を満たせ(創世記1:28)」。ちょうどそれと同じように、救われたばかりの私たちに、神様はお命じになっています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」!
もう一度、自分の心をチェックしていましょう。私たちは自分の賜物を、何のために用いているでしょうか?自分の徳を高めるためでしょうか?それとも教会の徳を高めるためでしょうか?自分を大きく見せる為でしょうか?それとも神様を大きく見せる為でしょうか?大切なのは、何をするか、何ができるか、ではなく、どのような心で行うかです。どうか私たちの心が、主の栄光のみを求めることができますように!
あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、
教会の徳を高めるために、
それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
Ⅰコリント14章12節
それは「神様に仕えること」です。前回、神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるとお話ししました。その通りです。でも今回は、より「神様」に強調点を移して学びたいと思います。Ⅰペテロの御言葉には続きがあります。長いですが引用しましょう。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン(4:7-11)」。ここにある通り、私たちの賜物は「互いに仕え合う」と同時に「主の御名があがめられるため」に用いられるべきものなのです。この「あがめられる」(ギ:doxazo、英:magnify)とは、「自分ではなく」「神様を大いなる方とする」ことです。
また賜物は「教会の徳を高めるために」用いられるべきものです。Ⅰコリントにはこうあります。「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい(14:12)」。これは異言の賜物が、礼拝の中でどのように語られるべきかを説明している箇所です。パウロは「何が教会の徳を高めるのか、という視点にたって判断しなさい」と教えています。なぜでしょうか?それは、「賜物」には、どうしても「自尊心をくすぐる要素」があるからです。私たちは、それをもって「自分を大きく見せたくなってしまう」のです。でも、そんなことをして「教会の徳は高まる」でしょうか?いいえ!自分を大きく見せようとすればするほど、対立が生まれてしまうのです。
コリントの教会は「御霊の賜物」が豊かに与えられた教会でした。でもその反面、党派心が強く、分裂分派が絶えない教会でもありました。なぜでしょうか?それは、みんなが「自分の賜物を誇り」「自分を大きく見せようとしていたから」です。私たちは、賜物の良い管理者として、その賜物を、「主の御名があがめられ」「教会の徳を高めるため」に用いるべきなのです。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、その賜物が原因で、教会に混乱が起っては何にもならないのです。
また賜物とは「宣教」のために用いられるべきものです。このことは何度も登場しますが、強調し過ぎることはありません。なぜならこのことは放っておくと、すぐに第二第三になり、やがて忘れ去られてしまうからです。私たちが救われたのは宣教するためです(Ⅰペテロ2:9)!人が「神のかたち」に似せてつくられた時、神様は命じられました。「生めよ、増えよ、地を満たせ(創世記1:28)」。ちょうどそれと同じように、救われたばかりの私たちに、神様はお命じになっています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」!
もう一度、自分の心をチェックしていましょう。私たちは自分の賜物を、何のために用いているでしょうか?自分の徳を高めるためでしょうか?それとも教会の徳を高めるためでしょうか?自分を大きく見せる為でしょうか?それとも神様を大きく見せる為でしょうか?大切なのは、何をするか、何ができるか、ではなく、どのような心で行うかです。どうか私たちの心が、主の栄光のみを求めることができますように!
あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、
教会の徳を高めるために、
それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
Ⅰコリント14章12節
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