今回の学びは、賜物の学びの補足として、フォロワーシップについてです。この言葉はまだ馴染みが薄いので、良い日本語を探していましたが、やっと思いつきました。それは「守り立てる心」です。辞書にはこうあります「守り立てる…1そばから励まし助ける。2衰えたものを再び盛んにする。3まもり育てる」。現在、政治においては、リーダーシップの欠如が叫ばれますが、実は、フォロワーシップの欠如の方が深刻な状況ではないかと感じています。アメリカにおいて比較的健全なリーダーシップが存在するのは、健全なフォロワーシップ(守り立てる心)があるからです。オバマ氏くらいの人物は、もしかしたら何人もいるのかもしれません。でも経験の少なかった彼をリーダーとして選び、ともに歩み、育て、守り立てているアメリカはやっぱり凄いと思います。これがフォロワーシップです。日本ではリーダーを批判するばかりで、自分たちの責任は棚上げです。健全なフォロワーシップのないところに、健全なリーダーシップも育ちません。
ヨシュアの時代のイスラエルには、このフォロワーシップがありました。モーセという偉大な指導者から、突如バトンタッチをされたヨシュアは、内心不安だったかもしれません。でも主は、そんな彼を何度も「強くあれ、雄々しくあれ(ヨシュ1:6)」と励まされました。また民も、若いヨシュアを守り立て「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちはモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように (1:16-17)」。と従いました。このフォロワーシップがなければ、ヨシュアとて潰れてしまったことでしょう。
フォロワーシップ(守り立てる心)も立派な賜物です。賜物というと、人を惹きつけグイグイ引っ張る能力のことだと思われがちです。しかしリーダーを助け、陰ながら守り立てていくのも立派な賜物です。イエス様には、12弟子やマルタとマリヤといった「フォロワー」がいました。またパウロには、テモテやアクラとプリスキラといった「守り立て役」がいました。偉大なリーダーの陰には、必ず偉大なフォロワーがいるのです。彼らは、ただ従順だったのでもなく、前回話したように権限移譲され、自分の頭で考え、いざという時には大胆に行動することもできました。
偽物には気をつけなさい。世の中には人間的な力で結びついた、リーダーシップとフォロワーシップの関係もあります。例えばアブシャロムがそうでした。彼は人々の愚痴を聞き、大げさに情けをかけ、民の「心」を盗みました(Ⅱサム15章)。英語の聖書(TEV)では「loyalty(忠誠心)を盗んだ」と訳されています。その忠誠心は、本来ダビデに向けられるべきものでした。しかしアブシャロムは、それを自分に向けさせたのです。現代の教会のリーダーたちも、自分のリーダーシップのなさに悩むことがあるかもしれません。でも、アブシャロムの真似をしてはいけません。どんな時でも御言葉の上にかたく立って、毅然としていなさい。そこから真の霊的なリーダーシップが生まれるのです。また信徒も、教役者たちにアブシャロムを求めるべきではありません。
私たちの忠誠心はすべてイエス様のものです!聖書にこうあります。「羊は、彼(イエス様)の声を知っているので、彼について行きます (ヨハネ10:4)」。よく勘違いされますが、羊飼いはイエス様で、牧師のことではありません。牧師は、あくまで羊(信徒)たちが、魂の牧者であるイエス様の声を聞いて、イエス様についていけるようにすることです(10:11)。その働きの尊さのゆえに、完璧ではなくても、やさしい目をもって、牧師とその家族を守り立てていくことも羊の責任です。
教会には、健全なリーダーシップとフォロワーシップが必要です。どちらが偉いか、大切か、という問題ではありません。あなたの協力があって、牧師は牧師となり、霊的な教会は建て上げられていくのです。
「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。
また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。
私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。
ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、
あなたとともにおられますように。ただ強く、雄々しくあってください。」
ヨシュア1章16-18節