2011年4月28日木曜日

「動物の学校」~能力を伸ばす教育とは~

● 次の物語「動物の学校」を読みましょう


 動物たちの学校がありました。カリキュラムには、走る、登る、飛ぶ、泳ぐなど、様々な科目があり、すべての動物がすべての科目を履修していました。

 アヒル君は泳ぎが得意で、飛ぶことにもそれなりの能力を見せましたが、走ることはまったくだめでした。そこでアヒル君は、得意な「泳ぎ」のクラスを捨ててまで、「走り」に専念することにしました。その結果、泳ぎの能力は人並み程度に落ちてしまいました。けれども、先生や他の生徒たちは、もうアヒル君の飛び抜けた「泳ぎ」の能力におびやかされることがなくなったので、以前よりも快適に過ごせるようになったといって喜んだのでした。

 一方、ワシ君は問題児とみなされていました。例えば「木登り」のクラスでは誰よりも先の木のてっぺんに到達することができたのですが、それは彼にしかできない独自の方法を使ったためで、そのことが問題視されていたのです。そのような態度を改めるため、厳しい処置がなされましたが、結局ワシ君は「泳ぎ」のクラスに非協力的であったため、不従順のかどで退学処分となったのでした。

 ウサギ君は「走り」のクラスでは断トツのトップでしたが、他の科目に関しては、明らかに平均以下でした。何とか他の科目でも平均以上をと考えた彼は「泳ぎ」のクラスでの過剰な居残り練習が災いし、ノイローゼのために学校をやめなければならなくなりました。

 カメ君は、すべてのクラスで落第点でした。甲羅が邪魔になっているに違いない、という判断が下された結果、彼の甲羅は取り外されることになりました。おかげで「走り」のクラスではいくらかの進歩がみられましたが、悲しいことに、ウマ君の蹄(ひづめ)の犠牲者となってしまったのでした。

 先生方は、これらの出来事にひどく失望しました。結局、謙遜を学ぶという意味では良い学校だったのかもしれませんが、誰も自分の才能を伸ばすことができず、真の成功を手にすることができなかったのです。彼らは自分の弱点の克服に集中するあまり、長所を伸ばすことをなおざりにしてしまったのでした。

(リック・ウォレン「あなたの賜物が輝く5ステップ」より)


質問:あなたは、この物語を読んでどう思いましたか?何を教えられましたか?
   あなたが先生だったらどういう指導をしますか?
   どうぞ自由に分かち合ってください。



***次回この内容を元に、聖書から、学びをさらに深めます。***

2011年4月14日木曜日

ステップ2 「情熱(Heart)」 マタイ22:34-40、コリント第二9章6-15節

SHAPEの学び(5ステップの頭文字をとったもの)に入っています。前回は、その第二ステップ「情熱(Heart)」に関するアンケートを取りました。題して「こころの心電図アンケート」!自分の心が、特に何に対して反応するのか、そのことを客観的に自己分析しました。結果はいかがだったでしょうか?意外な結果だったでしょうか?それとも予想通りの結果だったでしょうか? なぜそのようなアンケートをしたのか、それは、いくら「霊的賜物」がある分野であっても、そこに「あなたのこころ」がなければ、真の「喜び」と「充足感」を得ることができないからです。

クリスチャンではありませんが、世界の黒澤こと「黒澤明監督」がこんな言葉を残しています。「自分が本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。君たちは、努力したい何かを持っているはずだ。きっとそれは、君たちの心のこもった、立派な仕事になるでしょう」。同じことがミニストリー(主のための働き)にも言えます。私たちは、それぞれ違った「こころのツボ」を与えられています。ある人にとっては「喜びのツボ」であるのに、ある人にとっては「苦痛のツボ」である場合があります(夫婦でもそうじゃないですか)。私たちは生まれながらにして、また育つ環境において、ある事柄に、特別な関心を抱くように造られて(デザインされて)いるのです。神様はそういった私たちの個性も大切にしておられます。

好きなことだけをしていればいい、と言っているのではありません。リックウォレンは、それを「二次的なミニストリー」と呼んでいます。私たちは、あまり賜物のない分野でも、キリストのからだの欠けを補うために協力しなければいけない時があります(コロサイ1:24)。教会には、いつも多くの必要が山積(さんせき)しています。また前回も引用しましたが、聖書にはこうあります。「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」。この御言葉からも、好きなことだけをしていれば良いのではない、ということが分かるでしょう。特に、日本の教会は小さく、一人の信徒や牧師がいくつもの役割(奉仕やミニストリー)を兼ねなければいけない場合があります。その点において、日本ではこの二次的ミニストリーがより重要だともいえます。

しかし、好きなことに打ち込むことは、何も悪いことではありません。戦後のキリスト教は、欧米のピューリタン(清教徒)の影響を多分に受けていて、非常に禁欲的なところがありました。トランプはダメ、喫茶店はダメ、映画はダメ…。そして、自分の趣味でさえも「罪」だとみなす傾向がありました。それが100%間違いでもなく、もしその趣味が、神様や礼拝よりも大事なってしまったら、やはりそれは「罪(偶像)」でしょう。しかし、だからといって「趣味自体が罪」だというのは、やはり極端だと言わざるをえません。むしろ私たちは、その趣味さえも主にささげて、それを「福音宣教」のために活かすことはできないでしょうか?教会の中だけにいたら、いったい誰に伝道するでしょうか?むしろ私たちは、趣味を通じて積極的に人間関係を作り、じっくり、少しずつ、証しをしていくのです。また教会でもカルチャークラスを通して神の愛を伝えます。

大切なのは目的です。好きなことを、ただ自分の満足のためだけにするのは、神様を愛する者にとっては空しいものです。またそれが行き過ぎて、優先順位を間違えると罪となります。大切なのは、神の国とその義とをまず第一とすること(マタイ6:33)、そして、その好きなこと(趣味や特技)を通して、神と人とを愛し、神と人とに仕えることです(マタイ22:37-40)。その時、あなたは、本当の充足感を味わうことでしょう。そして、証しが、驚くほど喜びとなるのです!

あなたが知らず知らずのうちに、夢中になってしまうことは何ですか?それをどのように、神と人とのために役立てることができますか?もう一度祈り、磨きをかけ、心から喜んで神と人とに仕えることができますように。神様は何をするかではなく、あなたの「心」に興味があるのです。

そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
  あなたの神である主を愛せよ。』(37)
  これがたいせつな第一の戒めです。」(38)
(マタイ22章37-38節)

ひとりひとり、
いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
(Ⅱコリント9章7節)