2011年3月22日火曜日

ステップ1「霊的賜物(Spiritual gift)」 Ⅰコリント9章16-17節 ローマ12章4-8節

いよいよ前回から5ステップ(SHAPE)の学びに入っています。SHAPEとは、それぞれのステップ・テーマの頭文字を合わせたものです。前回は(ウェブにはアップしていませんが)「霊的賜物(Spiritual gift)アンケート」を行いました。95の質問に答えることによって、客観的に自分の霊的な賜物を発見することがその目的でした。賜物の種類は以下の聖書箇所をもとに(ローマ12章、Ⅰコリント12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章)、重複するものはまとめて「19」に分けました。「預言」「牧会」「教えること」「知恵」「知識」「勧め」「霊を見分ける」「分け与える」「助ける」「慈善」「伝道者」「信仰」「リーダーシップ」「管理運営」「奇跡」「いやし」「異言」「異言の解き明かし」「使徒」。結果がいかがでしたでしょうか?

「御霊の賜物」と「御霊の実」の重要性。福音派の教会では、なぜか御霊の賜物よりも、御霊の実(ガラテヤ5章)が重んじられる傾向があります。それには理由があります。確かに聖書には、Ⅰコリント12章で御霊の賜物のリストが紹介されたのち「更なる道を示して上げましょう(12:31)」と「愛の賛歌」が続いているのです。つまり、どんなに賜物に富んでいても「愛がないなら何の値打もないのです(13:2)」。だからと言って、御霊の賜物を軽んじてはいけません(Ⅰテモテ4:14)。それどころか聖書には「あなた方のうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい(Ⅱテモテ1:6)」とも記されています。この聖霊の賜物は、教会が健全な形で建て上げられるためにも、またその教会がいのちにあふれ、力強く前進するためにも、必要不可欠な要素なのです。

しかも、その賜物がバランス良く与えられていることが大切です。私たちは教会に「この賜物は欲しいけど、この賜物はいらない」とは言えないのです(Ⅰコリント12:21)。それなのに、多くのキリスト教会では、一部の賜物は強調するものの、一部の賜物についてはほとんど語っていないのが現状です。もし主が、本当に「私たちの教会に息を吹き込まれるなら(エゼキエル37章)」私たちの教会は、想像しているのとは全然違う教会になるかもしれません。私たちには、聖霊がなされることをそのまま受け入れる心の準備ができているでしょうか?自分が知らないことや、見たことや聞いたことがないことが起きても、主にあって一致することができるでしょうか?

聖霊の賜物には、二つの注意が必要です。一つは「妬み」です。この問題は前にもふれましたが、自分にない賜物を他の人が持っていると生じます。自覚はなくても、なぜが対立してしまう人との間にはこの問題が存在する場合があります。もう一つは「賜物投影(とうえい)」です。聞きなれない言葉かもしれませんがリックウォレンはこう説明します。「このことは非常に多く起きることであり、教会内に多くのトラブルをもたらす要因となります。それは他の人にも自分と同じような仕え方を期待したり、同じような結果を出すことを要求したりする態度のことです(73)」。兄弟姉妹に対して「何でもっとこういうやり方をしないのか」「なぜこんなに簡単なこと出来ないのだろうか」とイライラすることがその症状です。そう感じる時は、あなたにはそうできる「賜物」が与えられていることを感謝しましょう。他の人に、同じことを要求してはいけません。

賜物がないことを言い訳にしてはいけません。例えば、伝道の賜物のない人は伝道しなくてもいいのでしょうか?いいえ、聖書には「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら報いがありましょう。しかし強いられたにしても私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」とあります。全てのクリスチャンには、大宣教命令が与えられているのです。また慈善の賜物がなければ、困った人がいても無視して良いのでしょうか?いいえ、できることには個人差があるかもしれませんが、それでも自分に出来ることを、心を込めてすることは大切なことなのです。先日(2011年3月11日)東日本大震災が起こりましたが、いま、私たちの愛が試されています!

改めて、あなたの霊的な賜物は何でしょうか?どうかその賜物を燃え立たせて、神と人とに、熱く仕えることができますように。多く任された人は、多く要求されるのです(ルカ12:48)。また賜物のない分野にも、勇気を持ってチャレンジしてみましょう。新しい世界が開けるかもしれませんし、賜物の少ない分、余計に神様の力を多く、体験することができるかもしれません。

もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。
しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
(Ⅰコリント9章17節)

モーセは主に申し上げた。
「ああ主よ。私はことばの人ではありません。
以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。
私は口が重く、舌が重いのです。」
主は彼に仰せられた。
「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、
あなたの言うべきことを教えよう。」
(出エジプト4章10、11、12節 要約)

2011年3月2日水曜日

「超教派のなかで自分の賜物を活かす」 使徒13:1-3、14:26-27、Ⅱテモテ4:1-5

前回はキリストのからだ(教会)を通じて、自分の賜物を輝かせることを中心に学びました。その原則に変わりはありませんが、賜物活用の場は教会の中だけに限られるわけではありません。教会の外にも、教団や超教派などの働きがあります。そこには同じ年代や同じ趣味の人、そして賜物豊かな人々が、様々な教団教派から集まり、協力して宣教をしています。身近なところではKGK(キリスト者学生会)やCCC(キャンパスクルセード)Hi-B-A(高校生伝道団体)また最近ではゴスペルの働きも盛んです。そこでは地域教会とは一味違う出会いや楽しみもあるかもしれません。私たちは一体どのように、そういった超教派団体と関わっていけばよいのでしょうか?

そもそも教会とは何でしょうか?それは教会堂(建物)ではなく、信徒の集まりのことです。また更に大きく二つに分けられます。一つは地域教会です。可視的な教会とも言われますが、地域に密着し、礼拝と聖礼典(聖餐式と洗礼式)を行い、交わりをともにしている信徒の群れのことです。もう一つは世界大の教会です。これは不可視的な教会とも言われますが、世界に散らばっているクリスチャンを総称して教会と呼ぶのです。ちなみに使徒信条の「聖なる公同の教会」とは後者のことです。私たちは地域教会の会員でありながら、この公同の教会にも属しているのです。

身近なところからという原則。イエス様は「世界人類が平和でありますように」ではなく「あなたの隣人を愛せよ」と教えられました。また人々の間に住み、言葉と行いをもって愛を示され、十字架でいのちを捨てて下さいました。時々「私は世界大の教会に属していますから、特定の教会の会員にはなりません」という人がいますが、残念な言葉です。自由でいたくて束縛されないということでしょうか?確かに、ひとつの教会に属するのは責任を伴うことでもあります。しかし、そういった現実の中で、互いに仕え、愛し合うことにより、私たちはキリストの愛を学んでいくのです。愛することは互いに属すること。私たちは主にあって、一つのからだなのです!

地域教会あっての超教派です。アンテオケ教会は、聖霊によって示され、祈り、按手し、パウロとバルナバを異邦人宣教に派遣しました(使徒13:2-3)。そして彼らは帰ってくると真っ先にアンテオケ教会に報告しました(14:26-27)。彼らは、深く繋がっていました。よく超教派か地域教会かという議論がありますが、どちらも大切です。確かに地方の教会では人手が足りず、数少ない若い人には期待するところも大きいでしょう。しかし、聖霊によって示されるなら、彼らを地域教会の中だけに留めておくのではなく、祈り、励まし、思い切って遣わそうではありませんか。受けるよりも与える方が幸いなのです。また遣わされる側も、教会によって派遣されていることを自覚し、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝え(Ⅱテモテ4:2)、教会への報告(アカウンタビリティー)を大切にしたいものです。活動の幅を広げれば広げるほど、根っこを大切にするのです。

気ままな信仰に気をつけなさい。上記のような地域教会との繋がりがおろそかにされるとき、その働きは祝福を失ってしまいます。そして自分に都合のいいことを言ってもらうために、教師や地域教会を渡り歩く「教会難民」を生み出してしまいます(Ⅱテモテ4:3-4)。また万が一、地域教会を軽んじたり、批判したりする団体(働き人)があったら、そこからはすぐに離れなさい。どんなに魅力的であっても、それは主から出たミニストリーではありません。確かに完璧な教会はありません。しかし私たちは、その欠けを満たすために存在しているのです。聖書にはこうあります。「ですから私は、…キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロサイ1:24)」。

あなたは教団や超教派の働きに関わっていますか?聖霊の導きを求めつつ、あなたの賜物が、教団や超教派の中でも豊かに輝きますように。それと同時に、あなたの母教会を、ますます愛することができますように。主の言葉と教会にしっかり深く根差す時に、大きな花が咲くのです。

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、
わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
そこで彼らは、断食と祈りをして、
ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
(使徒13:2-3)