前回はキリストのからだ(教会)を通じて、自分の賜物を輝かせることを中心に学びました。その原則に変わりはありませんが、賜物活用の場は教会の中だけに限られるわけではありません。教会の外にも、教団や超教派などの働きがあります。そこには同じ年代や同じ趣味の人、そして賜物豊かな人々が、様々な教団教派から集まり、協力して宣教をしています。身近なところではKGK(キリスト者学生会)やCCC(キャンパスクルセード)Hi-B-A(高校生伝道団体)また最近ではゴスペルの働きも盛んです。そこでは地域教会とは一味違う出会いや楽しみもあるかもしれません。私たちは一体どのように、そういった超教派団体と関わっていけばよいのでしょうか?
そもそも教会とは何でしょうか?それは教会堂(建物)ではなく、信徒の集まりのことです。また更に大きく二つに分けられます。一つは地域教会です。可視的な教会とも言われますが、地域に密着し、礼拝と聖礼典(聖餐式と洗礼式)を行い、交わりをともにしている信徒の群れのことです。もう一つは世界大の教会です。これは不可視的な教会とも言われますが、世界に散らばっているクリスチャンを総称して教会と呼ぶのです。ちなみに使徒信条の「聖なる公同の教会」とは後者のことです。私たちは地域教会の会員でありながら、この公同の教会にも属しているのです。
身近なところからという原則。イエス様は「世界人類が平和でありますように」ではなく「あなたの隣人を愛せよ」と教えられました。また人々の間に住み、言葉と行いをもって愛を示され、十字架でいのちを捨てて下さいました。時々「私は世界大の教会に属していますから、特定の教会の会員にはなりません」という人がいますが、残念な言葉です。自由でいたくて束縛されないということでしょうか?確かに、ひとつの教会に属するのは責任を伴うことでもあります。しかし、そういった現実の中で、互いに仕え、愛し合うことにより、私たちはキリストの愛を学んでいくのです。愛することは互いに属すること。私たちは主にあって、一つのからだなのです!
地域教会あっての超教派です。アンテオケ教会は、聖霊によって示され、祈り、按手し、パウロとバルナバを異邦人宣教に派遣しました(使徒13:2-3)。そして彼らは帰ってくると真っ先にアンテオケ教会に報告しました(14:26-27)。彼らは、深く繋がっていました。よく超教派か地域教会かという議論がありますが、どちらも大切です。確かに地方の教会では人手が足りず、数少ない若い人には期待するところも大きいでしょう。しかし、聖霊によって示されるなら、彼らを地域教会の中だけに留めておくのではなく、祈り、励まし、思い切って遣わそうではありませんか。受けるよりも与える方が幸いなのです。また遣わされる側も、教会によって派遣されていることを自覚し、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝え(Ⅱテモテ4:2)、教会への報告(アカウンタビリティー)を大切にしたいものです。活動の幅を広げれば広げるほど、根っこを大切にするのです。
気ままな信仰に気をつけなさい。上記のような地域教会との繋がりがおろそかにされるとき、その働きは祝福を失ってしまいます。そして自分に都合のいいことを言ってもらうために、教師や地域教会を渡り歩く「教会難民」を生み出してしまいます(Ⅱテモテ4:3-4)。また万が一、地域教会を軽んじたり、批判したりする団体(働き人)があったら、そこからはすぐに離れなさい。どんなに魅力的であっても、それは主から出たミニストリーではありません。確かに完璧な教会はありません。しかし私たちは、その欠けを満たすために存在しているのです。聖書にはこうあります。「ですから私は、…キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロサイ1:24)」。
あなたは教団や超教派の働きに関わっていますか?聖霊の導きを求めつつ、あなたの賜物が、教団や超教派の中でも豊かに輝きますように。それと同時に、あなたの母教会を、ますます愛することができますように。主の言葉と教会にしっかり深く根差す時に、大きな花が咲くのです。
彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、
わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
そこで彼らは、断食と祈りをして、
ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
(使徒13:2-3)
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