2011年1月21日金曜日

「そもそも何のために生まれたのか」 エペソ2章10節、Ⅰペテロ2章9節

年も改まり、今日から新しい学びに入ります。参考図書はリック・ウォレン著の「あなたの賜物が輝く5つのステップ(PDJ出版)」です。そこから12回に分けて学んでいきたいと思いますが、今日のタイトルは「そもそも私たちは何のために生まれたのか」です。この場合の「生まれる」には二つの意味があります。一つは文字通り、この世に「生まれる」ことです。そしてもう一つは「救われる(生まれ変わる)」という意味です。私たちは何のために生まれたのでしょうか?

その目的を自覚する時、私たちの人生はまったく新しくされます!私たちは本来自分がやるべきじゃないことや、本来の目的から外れたことに時間や力を奪われるとき、徐々に元気と喜びを失っていきます。またどんなに頑張っても、一向に好きになれず空しく感じてしまうのは、もしかしたら、その目的が神様の目から見てズレていたり、自分の賜物と合っていないのかもしれません。もちろん、自分の感覚(好き嫌い)だけに頼って物事を判断してはいけませんが、もし私たちが本当に、自分にぴったりの人生の目的(目標)に出会うなら、どんなに辛くても、そこには「尽きぬ喜び」と「充実感(fulfillment)」、そして「豊かな実(fruitfulness)」が生まれるのです。

神様が私たちに用意して下さる人生はオーダーメイドです。それぞれ違う賜物を持っていて、神様はそれぞれに違うミニストリ(奉仕)を用意して下さっているのです。だから他人の活躍をみて羨ましく思う必要はないし、真似をする必要もないのです。自分のユニークな賜物を、どのように発見し、どのように主のために用いて行くのかについては、少しずつ学んでいきますが、最初にまず確認したいのは、そういった違いを超えて、私たちが目指すべき「究極の目的」なのです。

私たちが生まれてきた目的は「良い行いをするため」です(エペソ4:10)。それは「一日一善」というような漠然としたものではありません。聖書でいうところの「良い行い」とは「神様と隣人を愛し、神様と隣人に仕えること」なのです。ちなみに、この「神と人とに仕えること」を「ミニストリ」と呼びます。なぜわざわざカタカナなのか?それは「奉仕」という言葉には、どうしても「従順」「忠実」といった受け身のイメージが強いのですが、「ミニストリ」はもっと積極的で自発的に行うものだからです。私たちは、実に、このミニストリのために造られたのです!自分のためだけに生きても満足はありませんが、神と人のために生きるとき真の満足があるのです。

また、私たちが救われたのは、イエス・キリストの素晴らしさを述べ伝えるためです。聖書にはこうあります。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです(Ⅰペテロ2:9)」。ここに牧師と信徒の区別はありません。みんなが「王である祭司」であり「献身者」なのです。私たちの考えでは、特別なことをする人が「献身者」であり、その他の人は「一般信徒」なのもしれません。しかし聖書では「みんなが献身者なのだから、みんなで使命に生きよう」と言われているのです。

あなたは、その召しにふさわしく歩んでいますか。具体的なことは、これから学んでいきますが、まずこの人生の目的と使命を再確認したいと思います。いつの間にか私たちの人生は、本来の使命ではないことを中心に回っていて、そのことに忙殺されていないでしょうか?そして、自分が何のために生かされているのか、その使命さえも忘れてしまっていることはないでしょうか?◇世の中の人はいうでしょう。まずは「自分のため」で、余力があったら「神と人」そして最後に「伝道」だと。でも私たちは神様が与えて下さった尊い使命に生きるのです。そこに真に祝福された人生があるからです。

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
マタイ22:37-40

0 件のコメント:

コメントを投稿