2011年1月27日木曜日

「しもべの心」 マタイ25章31-46節、ルカ22章24-27節

前回から「私にもできる何かがある」と題して学んでいますが、その原題は「あなたの賜物が輝く5つのステップ」です。しかし私は、このテーマについて学ぶ時、いつも一つのことを自戒しています。それは、決して「単なる自己実現(成功主義)に終わらない」ということです。現代のキリスト教会(教界)にも、形を変えた自己啓発は入り込んでいます。そして「もっとあなたの賜物を活かして、あなたの夢をかなえなさい。もっと自分を大きくしなさい」と教えるのです。それは100パーセントの間違いではありませんが、聖書が第一に教えるところではありません。私たちは、自分に与えられている(任されている)賜物を用いて、何を目指すのでしょうか?

それは、互いに仕え合うことです。前回の学びで、私たちが生まれた(救われた)目的は「神と人とを愛すること」だと学びました。しかしこの二つは、分けられることではなく、実は二つで一つなのです。イエス様はたとえ話の中でこう言われました。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです(25:40)』。この私とは主ご自身のことです。この世の最も小さな者たち、困っている人、孤独な人、そして助けを必要としている人、そんな人たちのためにしたことは、神様にしたのと同じだと主は言われるのです。だから神と人とに仕えることは二つで一つなのです。

しもべの心を失ってはいけません!時々、賜物を強調するあまり、「私の賜物」の「私」にスポットライトが当たってしまうことがあります。私は、それを「マイ・タラントイズム(私の賜物主義)」と呼んでいますが、何かが欠けてしまっているように思います。それは「しもべの心」です。Ⅰペテロ4章10節にはこうあります。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」。私たちは、賜物(タラント)の「良き管理者」です。管理を任されているだけで、私たちの所有物ではありません。何のために任されているのか、それこそ「御心を行い」「互いに仕え合うため」なのです。

世の中の基準は、まったく逆です。人々は言うでしょう。「自分の才能を活かし、少しでも上に行きなさい」。でもクリスチャンは自分の賜物を「仕える(下に行く)ため」に用いるのです。この基本原則を理解していないと、教会の中で自分の賜物を活かしてもなかなか上にいけないので、ガッカリしてしまうか、「誰も自分を正当に評価してくれない」と周りの人々を責めることになってしまいます。イエス様は誰よりも「しもべ」となられました。あの最後の晩餐においても、弟子たちは「誰が一番偉いか」と論じ合っていたのですが、イエス様は率先して給仕され、こう教えられました。「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています(22:27)」。

このことを理解していないと伝道でさえも全くの別物になってしまいます。学生時代、リバイバル集会の帰り道、こんなことを聞きました。「いやぁ恵まれた。イエス様の十字架はよく分からないけど、伝道はしたいと思った」。正直、危険だと思いました。十字架のない伝道なんて単なる勢力拡大の野心です。極端なことを言えば、そういった心から宗教戦争や、十字軍の過ちが生まれたのです。パウロはこう言っています。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです(Ⅱコリント4:5)」。しもべの心を失った福音にも賜物にも、もはや何の価値もありません!

あなたはしもべの心を失っていませんか?「一番偉い人は、一番若いもののように。治める人は、仕える者のように」それが聖書の基準です。年齢や立場に関係なく、みなが一番若いもののようになり、仕え合うのがキリストの教会です。私たちは仕えられるためではなく、仕えるために救われたのです!

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、贖いの代価として、
自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ20章28節)

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