「あなたの賜物が輝く5ステップ」と題して学びを進めていますが、まだその5ステップに入っていません。その前の段階の学びに力を注いでいます。なぜなら、これが単なる自己啓発のセミナーとは違うからです。「この12回のセミナーを受けたらあなたの賜物が見つかります」「この講義を最後まで受けたらあなたの人生が変わります」という宣伝文句が巷(ちまた)には溢れています。確かに、お手軽で分かりやすいでしょう。でも信仰はハウトゥー(How to)ではありません。どんなに分かりにくくても、まわりくどくても、まずはしっかりと聖書に聞くことから始めるのが信仰です。「何のための賜物なのか」「その賜物はどのように用いられる性質のものなのか」そういう「そもそも論」こそが大切なのです。今日学ぶのは「チームワーク力」についてです。
個人で活躍するアーティストは、自分の賜物を輝かせ、自分の名を売ることに全神経を注ぐでしょう。それが仕事なのですから仕方がありません。しかしクリスチャンは、キリストのからだ(教会)の一員として「チームを通し」かしらなるキリスト(エペソ5:23)の栄光を現すのです。聖書にはこうあります。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです(ローマ12:5)」。心臓や肝臓や腎臓が、それぞれ目立とうとして「見て見て」と手を振るでしょうか?臓器が過度な自己主張をし始めたら、それは病気のしるしです。
チームワークが大切です。確かにからだには、器用な手とか、走れる足とか、上手に歌える唇とか、目立つ器官もあります。目立つこと自体が悪いのではありません。でもそれであっても、目に見えない器官に支えられており、からだから切り離されたら、何の役にも立たないのです。一人だけで目立とうとすることは何と滑稽なことでしょうか?つまりこういうことです。「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『私はあなたを必要としない』と言うこともできません(Ⅰコリント12:21)」。私たちは互いに互いを必要としており、キリストのからだにあっては、弱くて目立たない器官こそが大切なのです。
個人の力ではなく、からだ全体で栄光を表すことが大切です。コリント教会は、非常に賜物豊かな教会でしたが、ねたみや争いが絶えず、「私はパウロにつく」「私はアポロに」と縄張り争いに明け暮れ、教会をバラバラにしてしまいました。そんな分断された「からだ」を通して、キリストの栄光が現れるでしょうか?絶対にそんなことはありません!聖書にはこうあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです(Ⅰヨハネ4:12)」。結局のところ、賜物の多さによってではなく、愛のある交わりによって、キリストの栄光は現れるのです。ビジョン達成のためとか、自分が輝くために、弱い人を切り捨てるようなことがあってはいけません。聖書には「身分の低い者に順応しなさい(ローマ12:10)」とありますが、これは「交わりなさい」という意味でもあります。弱い人を切り捨てて、輝くような栄光は、本当の輝きではありません。
また主の働きはリレーのようなものです。リレーのバトンは、途中で放り投げても、握りしめ過ぎてもだめです。タイミング良く次の人に渡すことが大切です。奉仕も同じではないでしょうか?無責任に投げ出しても、自分ひとりで握りしめてもダメなのです。チームの勝利のためには上手なバトンタッチが必要です。渡されたバトンはしっかり握り、自分の役割を全力で果たしつつも、時が来たら次の人とも一緒に走り(育て)、最後はいさぎよくバトンを渡す(自立させる)のです。いつまでも自分の「活躍」ばかりを願ったら、チームを台無しにしてしまいます。パウロは言います。「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです(Ⅰコリント3:6-7)」。
あなたのチームワーク力は何点でしょうか?あなたの賜物は、チームの中でこそ本来の輝きを放つのです。チームプレーができなければ、いくら素晴らしい賜物も有害無益となってしまいます。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって
互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12章10節)
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