2011年4月14日木曜日

ステップ2 「情熱(Heart)」 マタイ22:34-40、コリント第二9章6-15節

SHAPEの学び(5ステップの頭文字をとったもの)に入っています。前回は、その第二ステップ「情熱(Heart)」に関するアンケートを取りました。題して「こころの心電図アンケート」!自分の心が、特に何に対して反応するのか、そのことを客観的に自己分析しました。結果はいかがだったでしょうか?意外な結果だったでしょうか?それとも予想通りの結果だったでしょうか? なぜそのようなアンケートをしたのか、それは、いくら「霊的賜物」がある分野であっても、そこに「あなたのこころ」がなければ、真の「喜び」と「充足感」を得ることができないからです。

クリスチャンではありませんが、世界の黒澤こと「黒澤明監督」がこんな言葉を残しています。「自分が本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。君たちは、努力したい何かを持っているはずだ。きっとそれは、君たちの心のこもった、立派な仕事になるでしょう」。同じことがミニストリー(主のための働き)にも言えます。私たちは、それぞれ違った「こころのツボ」を与えられています。ある人にとっては「喜びのツボ」であるのに、ある人にとっては「苦痛のツボ」である場合があります(夫婦でもそうじゃないですか)。私たちは生まれながらにして、また育つ環境において、ある事柄に、特別な関心を抱くように造られて(デザインされて)いるのです。神様はそういった私たちの個性も大切にしておられます。

好きなことだけをしていればいい、と言っているのではありません。リックウォレンは、それを「二次的なミニストリー」と呼んでいます。私たちは、あまり賜物のない分野でも、キリストのからだの欠けを補うために協力しなければいけない時があります(コロサイ1:24)。教会には、いつも多くの必要が山積(さんせき)しています。また前回も引用しましたが、聖書にはこうあります。「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」。この御言葉からも、好きなことだけをしていれば良いのではない、ということが分かるでしょう。特に、日本の教会は小さく、一人の信徒や牧師がいくつもの役割(奉仕やミニストリー)を兼ねなければいけない場合があります。その点において、日本ではこの二次的ミニストリーがより重要だともいえます。

しかし、好きなことに打ち込むことは、何も悪いことではありません。戦後のキリスト教は、欧米のピューリタン(清教徒)の影響を多分に受けていて、非常に禁欲的なところがありました。トランプはダメ、喫茶店はダメ、映画はダメ…。そして、自分の趣味でさえも「罪」だとみなす傾向がありました。それが100%間違いでもなく、もしその趣味が、神様や礼拝よりも大事なってしまったら、やはりそれは「罪(偶像)」でしょう。しかし、だからといって「趣味自体が罪」だというのは、やはり極端だと言わざるをえません。むしろ私たちは、その趣味さえも主にささげて、それを「福音宣教」のために活かすことはできないでしょうか?教会の中だけにいたら、いったい誰に伝道するでしょうか?むしろ私たちは、趣味を通じて積極的に人間関係を作り、じっくり、少しずつ、証しをしていくのです。また教会でもカルチャークラスを通して神の愛を伝えます。

大切なのは目的です。好きなことを、ただ自分の満足のためだけにするのは、神様を愛する者にとっては空しいものです。またそれが行き過ぎて、優先順位を間違えると罪となります。大切なのは、神の国とその義とをまず第一とすること(マタイ6:33)、そして、その好きなこと(趣味や特技)を通して、神と人とを愛し、神と人とに仕えることです(マタイ22:37-40)。その時、あなたは、本当の充足感を味わうことでしょう。そして、証しが、驚くほど喜びとなるのです!

あなたが知らず知らずのうちに、夢中になってしまうことは何ですか?それをどのように、神と人とのために役立てることができますか?もう一度祈り、磨きをかけ、心から喜んで神と人とに仕えることができますように。神様は何をするかではなく、あなたの「心」に興味があるのです。

そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
  あなたの神である主を愛せよ。』(37)
  これがたいせつな第一の戒めです。」(38)
(マタイ22章37-38節)

ひとりひとり、
いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
(Ⅱコリント9章7節)

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