前回は「人に仕えること(しもべの心)」と題して学びました。世の中で自分の才能とは、自分の徳を高め、人に仕えられる立場に上り詰めるために活用するものでしょう。そしてそれが私たちの頑張るモチベーション(動機)でもあります。でも聖書の価値観はまったく違います。私たちは、「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい(Ⅰペテロ4章10節)」と言われているのです。これは驚きです。そしてこれこそ、聖書のユニークな(他とは違う)教えなのです。今日は、もう一つの大切なことについて学びたいと思います。
それは「神様に仕えること」です。前回、神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるとお話ししました。その通りです。でも今回は、より「神様」に強調点を移して学びたいと思います。Ⅰペテロの御言葉には続きがあります。長いですが引用しましょう。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン(4:7-11)」。ここにある通り、私たちの賜物は「互いに仕え合う」と同時に「主の御名があがめられるため」に用いられるべきものなのです。この「あがめられる」(ギ:doxazo、英:magnify)とは、「自分ではなく」「神様を大いなる方とする」ことです。
また賜物は「教会の徳を高めるために」用いられるべきものです。Ⅰコリントにはこうあります。「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい(14:12)」。これは異言の賜物が、礼拝の中でどのように語られるべきかを説明している箇所です。パウロは「何が教会の徳を高めるのか、という視点にたって判断しなさい」と教えています。なぜでしょうか?それは、「賜物」には、どうしても「自尊心をくすぐる要素」があるからです。私たちは、それをもって「自分を大きく見せたくなってしまう」のです。でも、そんなことをして「教会の徳は高まる」でしょうか?いいえ!自分を大きく見せようとすればするほど、対立が生まれてしまうのです。
コリントの教会は「御霊の賜物」が豊かに与えられた教会でした。でもその反面、党派心が強く、分裂分派が絶えない教会でもありました。なぜでしょうか?それは、みんなが「自分の賜物を誇り」「自分を大きく見せようとしていたから」です。私たちは、賜物の良い管理者として、その賜物を、「主の御名があがめられ」「教会の徳を高めるため」に用いるべきなのです。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、その賜物が原因で、教会に混乱が起っては何にもならないのです。
また賜物とは「宣教」のために用いられるべきものです。このことは何度も登場しますが、強調し過ぎることはありません。なぜならこのことは放っておくと、すぐに第二第三になり、やがて忘れ去られてしまうからです。私たちが救われたのは宣教するためです(Ⅰペテロ2:9)!人が「神のかたち」に似せてつくられた時、神様は命じられました。「生めよ、増えよ、地を満たせ(創世記1:28)」。ちょうどそれと同じように、救われたばかりの私たちに、神様はお命じになっています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」!
もう一度、自分の心をチェックしていましょう。私たちは自分の賜物を、何のために用いているでしょうか?自分の徳を高めるためでしょうか?それとも教会の徳を高めるためでしょうか?自分を大きく見せる為でしょうか?それとも神様を大きく見せる為でしょうか?大切なのは、何をするか、何ができるか、ではなく、どのような心で行うかです。どうか私たちの心が、主の栄光のみを求めることができますように!
あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、
教会の徳を高めるために、
それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
Ⅰコリント14章12節
0 件のコメント:
コメントを投稿