SHAPEの学び(5ステップ)もいよいよ最後となりました。この最後のステップは特に重要な意味を持ちます。それはあなたの全人生に関わることであり、クリスチャンとしての生き方そのものに関わることだからです。リック・ウォレンはこう言います。「この最後のカテゴリーである苦痛の経験こそ、神様があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。あなたの最も重要な働きは、あなたが最も苦しんだ経験から生まれてくると言っても過言ではありません(人生を導く5つの目的p323)」。
苦痛経験が、自動的にミニストリーの益になるのではありません。同じ苦痛を経験したとしても、ある人は、そこから、自己憐憫や被害者意識、ねたみや憤りを獲得して行くのです。しかしある人は、同じ経験から、謙遜と希望と愛を獲得して行くのです。何が違うのでしょうか?それは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」この聖書の真理を、心から信じているかどうかです。たとえ不本意で、消してしまいたいような経験であったとしても、神様にはそれを益に変える力があると信じ、人を許し、自分を許し、(おかしな表現かもしれませんが)神様さえも許す必要があるのです。そうして初めて、あなたの人生に変化が訪れます。
しかし、苦痛経験には落とし穴もあります。もし私たちが、自分の経験に寄り頼み過ぎたり、絶対化したり、人にも押し付けようとするなら、その経験はかえって「人生の仇(あだ)」となってしまいます。経験は人それぞれです。あなたの人格形成や霊的成長のために、その経験は必要だったかもしれませんが、他の人にはまったく別の人生が用意されているのです。またあなたに与えられた解決の道と、他の人に用意されている解決の道とはまったく違うかもしれません。それなのに、自分の経験を絶対化し「あなたも、もっとこういう苦労を経験するべきだ」とか「こうやって解決しなさい」と人にも自分の経験を押し付けるなら、その経験はあなたにとって益とならなかったのです。あなたは、その経験によって「謙遜」ではなく「傲慢」を身につけたからです。
大切なのは、苦痛経験を通して神をより頼むものになることです。パウロは数々の試練を経験し、次の結論に達しました。「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(Ⅱコリ12:9)」。これは苦労そのものや、肉体的な弱さそのものを誇ると言う意味ではありません。そうではなくて「私は自分の弱さを通して、完全に働いてくださる神様と、その御力を誇る」と言っているのです。試練の荒波にもまれ、自分自身に白旗を上げ、100パーセント神様により頼むものとなる、これこそ試練の意味なのです。別の箇所で、パウロはこうとも言っています。「本当に自分の心の中で死を覚悟しました。これはもはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした(Ⅱコリ1:9)」。
そして初めて、その経験が神と人との役に立つのです。パウロはこう言っています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです(Ⅱコリ1:4)」。ここにもある通り、人生の苦痛を経験し、そこに注がれる神様の憐れみと愛を経験した人は、本当の意味で人をも慰めることができるのです。なぜなら、その人は、苦しみの中にいる人々の心に、本当の意味で寄り添うことができるからです。自分の経験を押し付けず、お説教せず、まずは相手の心にしっかり寄り添う。それがすべてのミニストリー(奉仕)の基本です。
あなたはどのように自分の賜物を輝かせますか?自分の能力や経験をアピールしますか。申し訳ありませんが、教会はそのようなところではありません。教会とは自分の弱さや罪深さと向き合い、そこに注がれる神様の偉大な力を信じる人々の集まりです。特別なことはできなくていいのです。ただ心から神と人を愛してください。そんなあなたの存在が、かけがえのない賜物です!
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい
(ルカ22:32)
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