2011年6月25日土曜日

補足 「権限委譲(empowerment)」 出エジプト18:13-27、マルコ6:1-7

5ステップの学びは前回終わりましたが、今回はその補足として権限委譲(empowerment)について学びたいと思います。というのは、この権限委譲がうまくいくかどうかによって、教会全体が生き生きし、ミニストリーに広がりが生まれるか、それとも教会全体が硬直化し、ミニストリーが失墜してしまうかが大きく方向づけられてしまうからです。また、間違った権限委譲は、教会に混乱と分裂をもたらします。そこで今日はこのテーマについて聖書から学びたいと思います。

権限委譲の原型は出エジプトに見ることができます。実は神様が人をつくられた時から権限委譲は始まっていました。創世記にこうあります。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように(1:26)」「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた(2:15)」これも立派な権限委譲です。しかし組織的に行われたのは、やはり出エジプトにおいてでしょう。モーセのしゅうとイテロはこう助言しました。「あなたのしていることは良くない(18:18)」「民全体の中から、神を恐れる…人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立て(21)」「小さな事件は彼らが裁かなければなりません(22)」。

またイエス様も弟子たちに権限移譲を行われました。マルコ福音書にこうあります。「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった(マルコ6:6-7)」。この直前、イエス様は故郷のナザレで宣教されましたが、尊敬されず、そこでは何一つ力あるわざを行うことはできませんでした(5)。でもその出来事が、弟子たちの派遣という「広がり」につながったのです。しかも、イエス様は、弟子たちを「二人ずつ遣わされ」ました。神の国の宣教活動は、もともと一人で行うものではないのです。みんな(チーム)で重荷を負い合い、助け合いながら行うものです。最後の大宣教命令も、言ってみれば権限移譲の命令です。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:18-19)」。いま聖霊によって、その力と権威が私たちにも与えられているのです。

ミニストリーにおいて、健全な権限移譲は必要不可欠です。開拓当初の教会においては、牧師とその家族が、週報の印刷から伝道牧会まで、何でもやらなければいけないこともあるでしょう。しかし教会の成長に伴って、徐々に、その働きを他の兄弟姉妹にも移譲して行かなければならなりません。権限移譲には4つのステップがあります。①I do, you see.(私がやって、あなたは見ています)。②I do, you help.(私がやって、あなたは助けます)。③I help, you do.(あなたがやって、私は助けます)。④I see, you do.(あなたがやって、私は見ています)。そうしてミニストリーを受け継いだら、今度は自分もその奉仕を握りしめず、先ほどの4ステップを踏んで、後の人に引き継いで行くのです。これが、以前も説明した、健全な奉仕のバトンタッチです。

しかし権限移譲であり、全権委譲ではないことを忘れてはいけません。大きな責任を任されると、嬉しくなって(それ自体は素晴らしいことですが)、間違った所有者意識をもってしまうことがあります。つまり「これは私が任されたことなんだから、私が決める。誰からも(牧師にも)口出しして欲しくない」とすべてを抱え込んでしまうのです。しかしそれは神様の喜ばれる姿ではありません。人(特にリーダーや指導的な立場にある人)の忠告や指導を受け入れる、謙遜さを失ってはいけません。そうでないとそのミニストリーは祝福されず、あなたのためにもならないからです。

あなたは自ら進んで教会の責任を担おうとしているでしょうか?何でもいいのです。何かの責任を担いなさい。しかし握りしめてはいけません。「開かれた心でしっかり仕える」それが大事!

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。
この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために
見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、
嘆いてすることにならないようにしなさい。
そうでないと、あなたがたの益にならないからです(ヘブル13:17)

0 件のコメント:

コメントを投稿