「あなたの賜物が輝く5ステップ」と題して学びを進めていますが、まだその5ステップに入っていません。その前の段階の学びに力を注いでいます。なぜなら、これが単なる自己啓発のセミナーとは違うからです。「この12回のセミナーを受けたらあなたの賜物が見つかります」「この講義を最後まで受けたらあなたの人生が変わります」という宣伝文句が巷(ちまた)には溢れています。確かに、お手軽で分かりやすいでしょう。でも信仰はハウトゥー(How to)ではありません。どんなに分かりにくくても、まわりくどくても、まずはしっかりと聖書に聞くことから始めるのが信仰です。「何のための賜物なのか」「その賜物はどのように用いられる性質のものなのか」そういう「そもそも論」こそが大切なのです。今日学ぶのは「チームワーク力」についてです。
個人で活躍するアーティストは、自分の賜物を輝かせ、自分の名を売ることに全神経を注ぐでしょう。それが仕事なのですから仕方がありません。しかしクリスチャンは、キリストのからだ(教会)の一員として「チームを通し」かしらなるキリスト(エペソ5:23)の栄光を現すのです。聖書にはこうあります。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです(ローマ12:5)」。心臓や肝臓や腎臓が、それぞれ目立とうとして「見て見て」と手を振るでしょうか?臓器が過度な自己主張をし始めたら、それは病気のしるしです。
チームワークが大切です。確かにからだには、器用な手とか、走れる足とか、上手に歌える唇とか、目立つ器官もあります。目立つこと自体が悪いのではありません。でもそれであっても、目に見えない器官に支えられており、からだから切り離されたら、何の役にも立たないのです。一人だけで目立とうとすることは何と滑稽なことでしょうか?つまりこういうことです。「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『私はあなたを必要としない』と言うこともできません(Ⅰコリント12:21)」。私たちは互いに互いを必要としており、キリストのからだにあっては、弱くて目立たない器官こそが大切なのです。
個人の力ではなく、からだ全体で栄光を表すことが大切です。コリント教会は、非常に賜物豊かな教会でしたが、ねたみや争いが絶えず、「私はパウロにつく」「私はアポロに」と縄張り争いに明け暮れ、教会をバラバラにしてしまいました。そんな分断された「からだ」を通して、キリストの栄光が現れるでしょうか?絶対にそんなことはありません!聖書にはこうあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです(Ⅰヨハネ4:12)」。結局のところ、賜物の多さによってではなく、愛のある交わりによって、キリストの栄光は現れるのです。ビジョン達成のためとか、自分が輝くために、弱い人を切り捨てるようなことがあってはいけません。聖書には「身分の低い者に順応しなさい(ローマ12:10)」とありますが、これは「交わりなさい」という意味でもあります。弱い人を切り捨てて、輝くような栄光は、本当の輝きではありません。
また主の働きはリレーのようなものです。リレーのバトンは、途中で放り投げても、握りしめ過ぎてもだめです。タイミング良く次の人に渡すことが大切です。奉仕も同じではないでしょうか?無責任に投げ出しても、自分ひとりで握りしめてもダメなのです。チームの勝利のためには上手なバトンタッチが必要です。渡されたバトンはしっかり握り、自分の役割を全力で果たしつつも、時が来たら次の人とも一緒に走り(育て)、最後はいさぎよくバトンを渡す(自立させる)のです。いつまでも自分の「活躍」ばかりを願ったら、チームを台無しにしてしまいます。パウロは言います。「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです(Ⅰコリント3:6-7)」。
あなたのチームワーク力は何点でしょうか?あなたの賜物は、チームの中でこそ本来の輝きを放つのです。チームプレーができなければ、いくら素晴らしい賜物も有害無益となってしまいます。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって
互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12章10節)
2011年2月24日木曜日
2011年2月17日木曜日
「輝くための 断捨離(だんしゃり)」 ピリピ3章7-16節
前回私たちはタラントのたとえから学びました。主人は、5タラントをもとに、5タラントもうけたしもべに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:21)」。これをマラソン競技にもたとえてみましょう。私たちは、いったいどうしたら、神様に「良くやった忠実なしもべだ」と喜ばれ、主からの栄冠(金メダル)をいただくことができるのでしょうか?少なくとも順位の問題ではありません。私たちが与えられたタラント(賜物・能力)に忠実に努力するならば、誰でも金メダルなのです。でももし、捨てるべきものを捨てないで、大きな荷物を抱えたまま走ったとしたら、こう言われてしまうのではないでしょうか?「○○さん、あなたはもっと速く走れたのではないですか?あなたにはその能力(タラント)があったはずです」。
いくつかの聖書箇所を読みましょう。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…兄弟たちよ。私は、…うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ3:8-14)」。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブル12:1-3)」。これだけ見ても、いかに信仰において「捨てること」が大切なのかがよく分かります。ペテロも網を捨ててイエス様についていきましたし、アブラハムもイサクを捧げたではありませんか!
リックウォレンもこう言っています。「ある人にとって、今このステップを踏み込む必要があるのかもしれません。ミニストリー以外のもので人生が占められているために、ミニストリーに関われずにいる場合があります。…あれもこれもと欲張っていては、成果は上がりません。もし真剣に神様に仕えたいと願っているならば、自分の人生を振り返り、何かを削ってみる必要があるのです。何かを取り除かなければ、新しいものを加えることはできません。自分の生活から、何を取り除く必要があるのでしょうか。…人生において、大切なものが分かったら、それを自分の人生の中に取り入れるために、それほど重要でないものを、まず取り除く必要があるのです。(p32)」。
本当に、神様(ミニストリー)のために、余裕がないのでしょうか?私たちは時々、神様のためには時間を惜しみながら、重要でないことのために時間を浪費している場合があります。テレビ、ゲーム、インターネットなどなど。また時には止めたいと思っている悪習慣にとらわれて、自分のエネルギーを浪費している場合もあります。その他にも「まつわりつく罪」や「過去」が足かせになって、一生懸命に走ろうと思えば思うほど疲れ果ててしまう場合もあります。私たちは神様のために走れないのではないのです。そうではなくて、捨てるべきものを、その都度しっかり捨てていないから、走れないし、前にも進めないのです。まずは、思い切って捨てることが肝心です!
金持ちの青年は捨てられませんでした。「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)」。結局のところ、彼が捨てられなかったのは、彼の財産ではなくて、プライドだったのではないでしょうか?なぜ彼は「不信仰な私を許して下さい。主よ、こんな私でも、あなたにいてきたいのです!」と涙ながらに訴えることができなかったのでしょうか?イエス様が、本当に求めていたのは、そういった、砕かれた悔いた心だったのではないでしょうか(詩篇51:17)。
今日、あなたが「棄て去るべきもの」は何でしょうか?もう一度、自分の人生を振り返ってみましょう。あなたの賜物が輝くために、まずその障害物が、取り除かれる必要があるのです。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、
それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3章8節)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
(マタイ16章24-25節)
いくつかの聖書箇所を読みましょう。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…兄弟たちよ。私は、…うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ3:8-14)」。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブル12:1-3)」。これだけ見ても、いかに信仰において「捨てること」が大切なのかがよく分かります。ペテロも網を捨ててイエス様についていきましたし、アブラハムもイサクを捧げたではありませんか!
リックウォレンもこう言っています。「ある人にとって、今このステップを踏み込む必要があるのかもしれません。ミニストリー以外のもので人生が占められているために、ミニストリーに関われずにいる場合があります。…あれもこれもと欲張っていては、成果は上がりません。もし真剣に神様に仕えたいと願っているならば、自分の人生を振り返り、何かを削ってみる必要があるのです。何かを取り除かなければ、新しいものを加えることはできません。自分の生活から、何を取り除く必要があるのでしょうか。…人生において、大切なものが分かったら、それを自分の人生の中に取り入れるために、それほど重要でないものを、まず取り除く必要があるのです。(p32)」。
本当に、神様(ミニストリー)のために、余裕がないのでしょうか?私たちは時々、神様のためには時間を惜しみながら、重要でないことのために時間を浪費している場合があります。テレビ、ゲーム、インターネットなどなど。また時には止めたいと思っている悪習慣にとらわれて、自分のエネルギーを浪費している場合もあります。その他にも「まつわりつく罪」や「過去」が足かせになって、一生懸命に走ろうと思えば思うほど疲れ果ててしまう場合もあります。私たちは神様のために走れないのではないのです。そうではなくて、捨てるべきものを、その都度しっかり捨てていないから、走れないし、前にも進めないのです。まずは、思い切って捨てることが肝心です!
金持ちの青年は捨てられませんでした。「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)」。結局のところ、彼が捨てられなかったのは、彼の財産ではなくて、プライドだったのではないでしょうか?なぜ彼は「不信仰な私を許して下さい。主よ、こんな私でも、あなたにいてきたいのです!」と涙ながらに訴えることができなかったのでしょうか?イエス様が、本当に求めていたのは、そういった、砕かれた悔いた心だったのではないでしょうか(詩篇51:17)。
今日、あなたが「棄て去るべきもの」は何でしょうか?もう一度、自分の人生を振り返ってみましょう。あなたの賜物が輝くために、まずその障害物が、取り除かれる必要があるのです。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、
それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3章8節)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
(マタイ16章24-25節)
2011年2月10日木曜日
「1タラントに込められた、主人の思い!」 マタイ25章14-30節
賜物について語るのに、避けては通れない聖書箇所があります。それが今回お読みする「タラントのたとえ」です。タラントは、ご存知のように「タレント(特別な能力や才能)」の語源となっている言葉です。話の中の主人は旅に出る際、しもべたち呼んで、それぞれの能力に応じて財産を預けられました。一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラント。いったいこれは何を意味しているのでしょうか?主は私たちに、何を期待しておられるのでしょうか?
いきなり話はそれますが、平等と何でしょう?少し前の話です。ある小学校の運動会で、負けがでないように、わざと全員一緒にゴールさせたそうです。それが本当の平等でしょうか?もちろん違います。今日の箇所にもはっきり書かれていますが、預けられるタラントは人それぞれ違います。また別の聖書の箇所にも「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。生まれ待った能力には差があります。それを受け入れることも大切な勉強です。大切なのは、自分が預かっているそのタラントを受け入れ、それを出来るだけ伸ばす(活用する)ことです。そういったチャンスを平等に与えられるのが、本当の平等です。
タラントの多少はその人の価値とはまったく関係がありません。神様は私たちの能力に応じて、タラントを預けられますが、その能力でさえも、神様から一方的な恵みによって与えられたものです。またタラントに至っては、主の栄光を表す目的のために一時的に預かっているにすぎないのです。聖書にはこうあります。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい(ロマ12:3)」。
そもそもなぜ主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、それは銀行に預けておくことだって出来たのです。その方がリスクは少なく利息だって付きました。でも主人はあえて彼らを信用し、権限を与え、自由に(*)やらせてみたかったのです。彼らの成長を願い、たとえ失敗したとしても、自分の頭で考え、大胆にチャレンジしてほしかったのです。これが神様の愛です。神様の御心は、私たちが言われたことだけをするロボットのように生きることではなく、自由と冒険に満ちた生涯を送ることなのです。(*自由とアカウンタビリティーについてはまた改めて)
1タラントのしもべは、そんな主人の信頼(愛)を全く理解していませんでした。そしてこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いて主人はどんなに悲しかったことでしょうか…。しかも、このしもべが「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、ここまで主人を悪く言ったのだとしたら…。箴言にはあります「なまけ者は言う『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』(22:13)」。
最大の過ちは、彼が主人の家の繁栄をともに喜べず、自分のことばかりにこだわっていたことです。内心、面白くなかったのかもしれません。「どうせ儲けたお金も主人のものなんだから頑張るだけ損だ」「なんであいつが5タラントで、あいつが2タラントで、俺が1タラントなんだ?」etc。1タラントとは6000日分の日当です。それだけでも十分な大金です。でも十分でも、人と比べたとたんに「これっぽっち」と感じてしまうのです。不平不満は心の病です。そこから愚かな行動が生まれ、とげのある言葉が生まれ、結局、持っているものまで失ってしまうのです。忘れてはいけません。私たちは主のしもべであり、その家(御国)の繁栄は私たちの祝福でもあるのです。誰が活躍したかは関係ありません。主が喜ばれるなら、それが私たちの喜びでもあるのです。
神様はあなたのことを、ひとり子を与えても惜しくないと思うほど、愛しておられます。その神様が、あなたに十分なタラントを預けていて下さいます。たとえそれが1タラントでも、私たちには十分なのです。大切なのは、私たちがそれに感謝し、神様の栄光(繁栄)を願い、何事にもチャレンジしてみることです。結果はどうであれ、神様はあなたの「チャレンジ報告」を待っておられ、あなたと一緒に喜びたいのです!
『よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21
いきなり話はそれますが、平等と何でしょう?少し前の話です。ある小学校の運動会で、負けがでないように、わざと全員一緒にゴールさせたそうです。それが本当の平等でしょうか?もちろん違います。今日の箇所にもはっきり書かれていますが、預けられるタラントは人それぞれ違います。また別の聖書の箇所にも「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。生まれ待った能力には差があります。それを受け入れることも大切な勉強です。大切なのは、自分が預かっているそのタラントを受け入れ、それを出来るだけ伸ばす(活用する)ことです。そういったチャンスを平等に与えられるのが、本当の平等です。
タラントの多少はその人の価値とはまったく関係がありません。神様は私たちの能力に応じて、タラントを預けられますが、その能力でさえも、神様から一方的な恵みによって与えられたものです。またタラントに至っては、主の栄光を表す目的のために一時的に預かっているにすぎないのです。聖書にはこうあります。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい(ロマ12:3)」。
そもそもなぜ主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、それは銀行に預けておくことだって出来たのです。その方がリスクは少なく利息だって付きました。でも主人はあえて彼らを信用し、権限を与え、自由に(*)やらせてみたかったのです。彼らの成長を願い、たとえ失敗したとしても、自分の頭で考え、大胆にチャレンジしてほしかったのです。これが神様の愛です。神様の御心は、私たちが言われたことだけをするロボットのように生きることではなく、自由と冒険に満ちた生涯を送ることなのです。(*自由とアカウンタビリティーについてはまた改めて)
1タラントのしもべは、そんな主人の信頼(愛)を全く理解していませんでした。そしてこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いて主人はどんなに悲しかったことでしょうか…。しかも、このしもべが「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、ここまで主人を悪く言ったのだとしたら…。箴言にはあります「なまけ者は言う『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』(22:13)」。
最大の過ちは、彼が主人の家の繁栄をともに喜べず、自分のことばかりにこだわっていたことです。内心、面白くなかったのかもしれません。「どうせ儲けたお金も主人のものなんだから頑張るだけ損だ」「なんであいつが5タラントで、あいつが2タラントで、俺が1タラントなんだ?」etc。1タラントとは6000日分の日当です。それだけでも十分な大金です。でも十分でも、人と比べたとたんに「これっぽっち」と感じてしまうのです。不平不満は心の病です。そこから愚かな行動が生まれ、とげのある言葉が生まれ、結局、持っているものまで失ってしまうのです。忘れてはいけません。私たちは主のしもべであり、その家(御国)の繁栄は私たちの祝福でもあるのです。誰が活躍したかは関係ありません。主が喜ばれるなら、それが私たちの喜びでもあるのです。
神様はあなたのことを、ひとり子を与えても惜しくないと思うほど、愛しておられます。その神様が、あなたに十分なタラントを預けていて下さいます。たとえそれが1タラントでも、私たちには十分なのです。大切なのは、私たちがそれに感謝し、神様の栄光(繁栄)を願い、何事にもチャレンジしてみることです。結果はどうであれ、神様はあなたの「チャレンジ報告」を待っておられ、あなたと一緒に喜びたいのです!
『よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21
2011年2月3日木曜日
「あがめられるため」 Ⅰペテロ4章7-11節、マタイ28章16-20節
前回は「人に仕えること(しもべの心)」と題して学びました。世の中で自分の才能とは、自分の徳を高め、人に仕えられる立場に上り詰めるために活用するものでしょう。そしてそれが私たちの頑張るモチベーション(動機)でもあります。でも聖書の価値観はまったく違います。私たちは、「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい(Ⅰペテロ4章10節)」と言われているのです。これは驚きです。そしてこれこそ、聖書のユニークな(他とは違う)教えなのです。今日は、もう一つの大切なことについて学びたいと思います。
それは「神様に仕えること」です。前回、神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるとお話ししました。その通りです。でも今回は、より「神様」に強調点を移して学びたいと思います。Ⅰペテロの御言葉には続きがあります。長いですが引用しましょう。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン(4:7-11)」。ここにある通り、私たちの賜物は「互いに仕え合う」と同時に「主の御名があがめられるため」に用いられるべきものなのです。この「あがめられる」(ギ:doxazo、英:magnify)とは、「自分ではなく」「神様を大いなる方とする」ことです。
また賜物は「教会の徳を高めるために」用いられるべきものです。Ⅰコリントにはこうあります。「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい(14:12)」。これは異言の賜物が、礼拝の中でどのように語られるべきかを説明している箇所です。パウロは「何が教会の徳を高めるのか、という視点にたって判断しなさい」と教えています。なぜでしょうか?それは、「賜物」には、どうしても「自尊心をくすぐる要素」があるからです。私たちは、それをもって「自分を大きく見せたくなってしまう」のです。でも、そんなことをして「教会の徳は高まる」でしょうか?いいえ!自分を大きく見せようとすればするほど、対立が生まれてしまうのです。
コリントの教会は「御霊の賜物」が豊かに与えられた教会でした。でもその反面、党派心が強く、分裂分派が絶えない教会でもありました。なぜでしょうか?それは、みんなが「自分の賜物を誇り」「自分を大きく見せようとしていたから」です。私たちは、賜物の良い管理者として、その賜物を、「主の御名があがめられ」「教会の徳を高めるため」に用いるべきなのです。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、その賜物が原因で、教会に混乱が起っては何にもならないのです。
また賜物とは「宣教」のために用いられるべきものです。このことは何度も登場しますが、強調し過ぎることはありません。なぜならこのことは放っておくと、すぐに第二第三になり、やがて忘れ去られてしまうからです。私たちが救われたのは宣教するためです(Ⅰペテロ2:9)!人が「神のかたち」に似せてつくられた時、神様は命じられました。「生めよ、増えよ、地を満たせ(創世記1:28)」。ちょうどそれと同じように、救われたばかりの私たちに、神様はお命じになっています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」!
もう一度、自分の心をチェックしていましょう。私たちは自分の賜物を、何のために用いているでしょうか?自分の徳を高めるためでしょうか?それとも教会の徳を高めるためでしょうか?自分を大きく見せる為でしょうか?それとも神様を大きく見せる為でしょうか?大切なのは、何をするか、何ができるか、ではなく、どのような心で行うかです。どうか私たちの心が、主の栄光のみを求めることができますように!
あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、
教会の徳を高めるために、
それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
Ⅰコリント14章12節
それは「神様に仕えること」です。前回、神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるとお話ししました。その通りです。でも今回は、より「神様」に強調点を移して学びたいと思います。Ⅰペテロの御言葉には続きがあります。長いですが引用しましょう。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン(4:7-11)」。ここにある通り、私たちの賜物は「互いに仕え合う」と同時に「主の御名があがめられるため」に用いられるべきものなのです。この「あがめられる」(ギ:doxazo、英:magnify)とは、「自分ではなく」「神様を大いなる方とする」ことです。
また賜物は「教会の徳を高めるために」用いられるべきものです。Ⅰコリントにはこうあります。「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい(14:12)」。これは異言の賜物が、礼拝の中でどのように語られるべきかを説明している箇所です。パウロは「何が教会の徳を高めるのか、という視点にたって判断しなさい」と教えています。なぜでしょうか?それは、「賜物」には、どうしても「自尊心をくすぐる要素」があるからです。私たちは、それをもって「自分を大きく見せたくなってしまう」のです。でも、そんなことをして「教会の徳は高まる」でしょうか?いいえ!自分を大きく見せようとすればするほど、対立が生まれてしまうのです。
コリントの教会は「御霊の賜物」が豊かに与えられた教会でした。でもその反面、党派心が強く、分裂分派が絶えない教会でもありました。なぜでしょうか?それは、みんなが「自分の賜物を誇り」「自分を大きく見せようとしていたから」です。私たちは、賜物の良い管理者として、その賜物を、「主の御名があがめられ」「教会の徳を高めるため」に用いるべきなのです。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、その賜物が原因で、教会に混乱が起っては何にもならないのです。
また賜物とは「宣教」のために用いられるべきものです。このことは何度も登場しますが、強調し過ぎることはありません。なぜならこのことは放っておくと、すぐに第二第三になり、やがて忘れ去られてしまうからです。私たちが救われたのは宣教するためです(Ⅰペテロ2:9)!人が「神のかたち」に似せてつくられた時、神様は命じられました。「生めよ、増えよ、地を満たせ(創世記1:28)」。ちょうどそれと同じように、救われたばかりの私たちに、神様はお命じになっています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」!
もう一度、自分の心をチェックしていましょう。私たちは自分の賜物を、何のために用いているでしょうか?自分の徳を高めるためでしょうか?それとも教会の徳を高めるためでしょうか?自分を大きく見せる為でしょうか?それとも神様を大きく見せる為でしょうか?大切なのは、何をするか、何ができるか、ではなく、どのような心で行うかです。どうか私たちの心が、主の栄光のみを求めることができますように!
あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、
教会の徳を高めるために、
それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
Ⅰコリント14章12節
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