2011年2月17日木曜日

「輝くための 断捨離(だんしゃり)」 ピリピ3章7-16節

前回私たちはタラントのたとえから学びました。主人は、5タラントをもとに、5タラントもうけたしもべに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:21)」。これをマラソン競技にもたとえてみましょう。私たちは、いったいどうしたら、神様に「良くやった忠実なしもべだ」と喜ばれ、主からの栄冠(金メダル)をいただくことができるのでしょうか?少なくとも順位の問題ではありません。私たちが与えられたタラント(賜物・能力)に忠実に努力するならば、誰でも金メダルなのです。でももし、捨てるべきものを捨てないで、大きな荷物を抱えたまま走ったとしたら、こう言われてしまうのではないでしょうか?「○○さん、あなたはもっと速く走れたのではないですか?あなたにはその能力(タラント)があったはずです」。

いくつかの聖書箇所を読みましょう。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…兄弟たちよ。私は、…うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ3:8-14)」。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブル12:1-3)」。これだけ見ても、いかに信仰において「捨てること」が大切なのかがよく分かります。ペテロも網を捨ててイエス様についていきましたし、アブラハムもイサクを捧げたではありませんか!

リックウォレンもこう言っています。「ある人にとって、今このステップを踏み込む必要があるのかもしれません。ミニストリー以外のもので人生が占められているために、ミニストリーに関われずにいる場合があります。…あれもこれもと欲張っていては、成果は上がりません。もし真剣に神様に仕えたいと願っているならば、自分の人生を振り返り、何かを削ってみる必要があるのです。何かを取り除かなければ、新しいものを加えることはできません。自分の生活から、何を取り除く必要があるのでしょうか。…人生において、大切なものが分かったら、それを自分の人生の中に取り入れるために、それほど重要でないものを、まず取り除く必要があるのです。(p32)」。

本当に、神様(ミニストリー)のために、余裕がないのでしょうか?私たちは時々、神様のためには時間を惜しみながら、重要でないことのために時間を浪費している場合があります。テレビ、ゲーム、インターネットなどなど。また時には止めたいと思っている悪習慣にとらわれて、自分のエネルギーを浪費している場合もあります。その他にも「まつわりつく罪」や「過去」が足かせになって、一生懸命に走ろうと思えば思うほど疲れ果ててしまう場合もあります。私たちは神様のために走れないのではないのです。そうではなくて、捨てるべきものを、その都度しっかり捨てていないから、走れないし、前にも進めないのです。まずは、思い切って捨てることが肝心です!

金持ちの青年は捨てられませんでした。「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)」。結局のところ、彼が捨てられなかったのは、彼の財産ではなくて、プライドだったのではないでしょうか?なぜ彼は「不信仰な私を許して下さい。主よ、こんな私でも、あなたにいてきたいのです!」と涙ながらに訴えることができなかったのでしょうか?イエス様が、本当に求めていたのは、そういった、砕かれた悔いた心だったのではないでしょうか(詩篇51:17)。

今日、あなたが「棄て去るべきもの」は何でしょうか?もう一度、自分の人生を振り返ってみましょう。あなたの賜物が輝くために、まずその障害物が、取り除かれる必要があるのです。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、
それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3章8節)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
(マタイ16章24-25節)

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