2011年2月10日木曜日

「1タラントに込められた、主人の思い!」 マタイ25章14-30節

賜物について語るのに、避けては通れない聖書箇所があります。それが今回お読みする「タラントのたとえ」です。タラントは、ご存知のように「タレント(特別な能力や才能)」の語源となっている言葉です。話の中の主人は旅に出る際、しもべたち呼んで、それぞれの能力に応じて財産を預けられました。一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラント。いったいこれは何を意味しているのでしょうか?主は私たちに、何を期待しておられるのでしょうか?

いきなり話はそれますが、平等と何でしょう?少し前の話です。ある小学校の運動会で、負けがでないように、わざと全員一緒にゴールさせたそうです。それが本当の平等でしょうか?もちろん違います。今日の箇所にもはっきり書かれていますが、預けられるタラントは人それぞれ違います。また別の聖書の箇所にも「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。生まれ待った能力には差があります。それを受け入れることも大切な勉強です。大切なのは、自分が預かっているそのタラントを受け入れ、それを出来るだけ伸ばす(活用する)ことです。そういったチャンスを平等に与えられるのが、本当の平等です。

タラントの多少はその人の価値とはまったく関係がありません。神様は私たちの能力に応じて、タラントを預けられますが、その能力でさえも、神様から一方的な恵みによって与えられたものです。またタラントに至っては、主の栄光を表す目的のために一時的に預かっているにすぎないのです。聖書にはこうあります。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい(ロマ12:3)」。

そもそもなぜ主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、それは銀行に預けておくことだって出来たのです。その方がリスクは少なく利息だって付きました。でも主人はあえて彼らを信用し、権限を与え、自由に(*)やらせてみたかったのです。彼らの成長を願い、たとえ失敗したとしても、自分の頭で考え、大胆にチャレンジしてほしかったのです。これが神様の愛です。神様の御心は、私たちが言われたことだけをするロボットのように生きることではなく、自由と冒険に満ちた生涯を送ることなのです。(*自由とアカウンタビリティーについてはまた改めて)

1タラントのしもべは、そんな主人の信頼(愛)を全く理解していませんでした。そしてこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いて主人はどんなに悲しかったことでしょうか…。しかも、このしもべが「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、ここまで主人を悪く言ったのだとしたら…。箴言にはあります「なまけ者は言う『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』(22:13)」。

最大の過ちは、彼が主人の家の繁栄をともに喜べず、自分のことばかりにこだわっていたことです。内心、面白くなかったのかもしれません。「どうせ儲けたお金も主人のものなんだから頑張るだけ損だ」「なんであいつが5タラントで、あいつが2タラントで、俺が1タラントなんだ?」etc。1タラントとは6000日分の日当です。それだけでも十分な大金です。でも十分でも、人と比べたとたんに「これっぽっち」と感じてしまうのです。不平不満は心の病です。そこから愚かな行動が生まれ、とげのある言葉が生まれ、結局、持っているものまで失ってしまうのです。忘れてはいけません。私たちは主のしもべであり、その家(御国)の繁栄は私たちの祝福でもあるのです。誰が活躍したかは関係ありません。主が喜ばれるなら、それが私たちの喜びでもあるのです。

神様はあなたのことを、ひとり子を与えても惜しくないと思うほど、愛しておられます。その神様が、あなたに十分なタラントを預けていて下さいます。たとえそれが1タラントでも、私たちには十分なのです。大切なのは、私たちがそれに感謝し、神様の栄光(繁栄)を願い、何事にもチャレンジしてみることです。結果はどうであれ、神様はあなたの「チャレンジ報告」を待っておられ、あなたと一緒に喜びたいのです!

『よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21

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