2011年5月12日木曜日

ステップ3 「能力(ability)」 使徒21:37-22:9、ピリピ3:1-16

SHAPE(5ステップの頭文字)の第3ステップを学びます。前回は「能力(ability)」アンケートを行いました。リックウォレンは、人の能力は26種類に分けられると言いましたが、このテキストでは少し手を加え「31種類の種類」にまとめました。またそれに加えて「動物の学校」のたとえ話も読みました。出来れば、もう一度、あのたとえ話を読み返すことをお勧めします。

あの「動物の学校」のたとえ話には誤解があります。あの話は決して、不得意なことは投げ出して、得意分野だけに専念しなさいと教えているのではありません。その証拠に「すべての動物がすべての科目を履修していました」と最初にことわられています。彼らは自分に課せられた義務や責任をちゃんと果たしていました。その上で、彼らには特に秀でた得意分野があったのです。でも彼らはその分野に努力をするのではなく、ひたすら苦手克服に力を注いでしまいました。その結果、わずかな成果はあったものの、もともと得意なことは、人並みかそれ以下になってしまいました。神様は、人それぞれをユニークな存在として創造しておられます。そのことを無視して、他人と比べて、出来ないことばかりを気にしたり、他の人と同じようになることばかりを追い求めるのは、なんともったいないことでしょうか。誰よりも、そう造られた神様が悲しまれます。

あの話は二つのことを教えています。一つは、自分に与えられている能力を更に伸ばしなさいということです。以前も話したように「二次的な奉仕」も大切です。でも自分の得意分野には更なる投資を惜しんではいけないのです。それはきっと何かの形で、神と人との役に立つことでしょう。もう一つは、他人の能力も祝福しなさいということです。アヒル君が上手に泳げなくなった時、先生もクラスメートも「もうアヒル君の能力におびやかされることがなくなったので喜んだ」とあります。また誰にも真似でいない方法で高く飛んだワシ君は「つねに問題児とみなされて」いました。なんと不幸なことでしょうか!「その人らしさ」が「他の人とは違う」という理由だけで問題視されてしまうのです。教会はそうであってはいけません!自分に出来ないことをしていても、今までのやり方とは違っていても、その人が喜んで神と人とに仕えているなら、それを「ともに喜ぶ大らかさ」が大切です。罪悪感を与えたり、ガッカリさせたりするべきではありません。

パウロにも多くの能力が与えられていました。彼は外国で生まれたユダヤ人であり、ギリシヤ語にもヘブル語にも通じていました。そして当時の一等国民であるローマ市民権を持ちながら、パリサイ派の最高師範の一人であるガマリエルの弟子でもありました。つまりギリシヤ・ローマ人に対しても、ユダヤ人に対しても、何一つ引け目を感じることのない「選ばれた人」だったのです。しかし、かつての彼(サウロ)は、その能力を持って何をしていたでしょうか?クリスチャンを追いかけて外国まで行き、見つけ出しては引いて来て、牢(ろう)にぶち込んでいたのです。彼の能力は、神様の役にも人の役にも立ちませんでした。それどころか、教会を破壊していたのです。

彼の能力が本当に生かされたのは、自分自身に死んでからでした。後の彼はこう言っています。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています(ピリピ3:8)」。ちりあくたというのは、それらを全く無価値だと思っているということです。皮肉なものです。自分の能力に頼っている内は、本当の意味でその能力が生かされず、自分の能力のみならず、自分自身に死んだ時に、初めてその能力が永遠のために生かされるのです。それは「神の御前で誰をも誇らせない」という神の知恵によります(Ⅰコリント1:29)。聖書にはこうともあります。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって(ゼカリヤ4:6)」。

あなたにはどんな能力が与えられていますか?その能力に磨きをかけて下さい。しかしその能力にではなく、主により頼んでください。その時、あなたは、本当の意味で輝き始めるのです!

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、
わたしのために自分のいのちを失う者は、
それを救うのです。(ルカ9:24)

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