2011年7月3日日曜日

補足 「守り立てる心(followership)」 Ⅱサムエル15:1-12、ヨハネ10:1-11

今回の学びは、賜物の学びの補足として、フォロワーシップについてです。この言葉はまだ馴染みが薄いので、良い日本語を探していましたが、やっと思いつきました。それは「守り立てる心」です。辞書にはこうあります「守り立てる…1そばから励まし助ける。2衰えたものを再び盛んにする。3まもり育てる」。現在、政治においては、リーダーシップの欠如が叫ばれますが、実は、フォロワーシップの欠如の方が深刻な状況ではないかと感じています。アメリカにおいて比較的健全なリーダーシップが存在するのは、健全なフォロワーシップ(守り立てる心)があるからです。オバマ氏くらいの人物は、もしかしたら何人もいるのかもしれません。でも経験の少なかった彼をリーダーとして選び、ともに歩み、育て、守り立てているアメリカはやっぱり凄いと思います。これがフォロワーシップです。日本ではリーダーを批判するばかりで、自分たちの責任は棚上げです。健全なフォロワーシップのないところに、健全なリーダーシップも育ちません。

ヨシュアの時代のイスラエルには、このフォロワーシップがありました。モーセという偉大な指導者から、突如バトンタッチをされたヨシュアは、内心不安だったかもしれません。でも主は、そんな彼を何度も「強くあれ、雄々しくあれ(ヨシュ1:6)」と励まされました。また民も、若いヨシュアを守り立て「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちはモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように (1:16-17)」。と従いました。このフォロワーシップがなければ、ヨシュアとて潰れてしまったことでしょう。

フォロワーシップ(守り立てる心)も立派な賜物です。賜物というと、人を惹きつけグイグイ引っ張る能力のことだと思われがちです。しかしリーダーを助け、陰ながら守り立てていくのも立派な賜物です。イエス様には、12弟子やマルタとマリヤといった「フォロワー」がいました。またパウロには、テモテやアクラとプリスキラといった「守り立て役」がいました。偉大なリーダーの陰には、必ず偉大なフォロワーがいるのです。彼らは、ただ従順だったのでもなく、前回話したように権限移譲され、自分の頭で考え、いざという時には大胆に行動することもできました。

偽物には気をつけなさい。世の中には人間的な力で結びついた、リーダーシップとフォロワーシップの関係もあります。例えばアブシャロムがそうでした。彼は人々の愚痴を聞き、大げさに情けをかけ、民の「心」を盗みました(Ⅱサム15章)。英語の聖書(TEV)では「loyalty(忠誠心)を盗んだ」と訳されています。その忠誠心は、本来ダビデに向けられるべきものでした。しかしアブシャロムは、それを自分に向けさせたのです。現代の教会のリーダーたちも、自分のリーダーシップのなさに悩むことがあるかもしれません。でも、アブシャロムの真似をしてはいけません。どんな時でも御言葉の上にかたく立って、毅然としていなさい。そこから真の霊的なリーダーシップが生まれるのです。また信徒も、教役者たちにアブシャロムを求めるべきではありません。

私たちの忠誠心はすべてイエス様のものです!聖書にこうあります。「羊は、彼(イエス様)の声を知っているので、彼について行きます (ヨハネ10:4)」。よく勘違いされますが、羊飼いはイエス様で、牧師のことではありません。牧師は、あくまで羊(信徒)たちが、魂の牧者であるイエス様の声を聞いて、イエス様についていけるようにすることです(10:11)。その働きの尊さのゆえに、完璧ではなくても、やさしい目をもって、牧師とその家族を守り立てていくことも羊の責任です。

教会には、健全なリーダーシップとフォロワーシップが必要です。どちらが偉いか、大切か、という問題ではありません。あなたの協力があって、牧師は牧師となり、霊的な教会は建て上げられていくのです。

「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。
また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。
私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。
ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、
あなたとともにおられますように。ただ強く、雄々しくあってください。」
ヨシュア1章16-18節

2011年6月25日土曜日

補足 「権限委譲(empowerment)」 出エジプト18:13-27、マルコ6:1-7

5ステップの学びは前回終わりましたが、今回はその補足として権限委譲(empowerment)について学びたいと思います。というのは、この権限委譲がうまくいくかどうかによって、教会全体が生き生きし、ミニストリーに広がりが生まれるか、それとも教会全体が硬直化し、ミニストリーが失墜してしまうかが大きく方向づけられてしまうからです。また、間違った権限委譲は、教会に混乱と分裂をもたらします。そこで今日はこのテーマについて聖書から学びたいと思います。

権限委譲の原型は出エジプトに見ることができます。実は神様が人をつくられた時から権限委譲は始まっていました。創世記にこうあります。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように(1:26)」「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた(2:15)」これも立派な権限委譲です。しかし組織的に行われたのは、やはり出エジプトにおいてでしょう。モーセのしゅうとイテロはこう助言しました。「あなたのしていることは良くない(18:18)」「民全体の中から、神を恐れる…人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立て(21)」「小さな事件は彼らが裁かなければなりません(22)」。

またイエス様も弟子たちに権限移譲を行われました。マルコ福音書にこうあります。「それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった(マルコ6:6-7)」。この直前、イエス様は故郷のナザレで宣教されましたが、尊敬されず、そこでは何一つ力あるわざを行うことはできませんでした(5)。でもその出来事が、弟子たちの派遣という「広がり」につながったのです。しかも、イエス様は、弟子たちを「二人ずつ遣わされ」ました。神の国の宣教活動は、もともと一人で行うものではないのです。みんな(チーム)で重荷を負い合い、助け合いながら行うものです。最後の大宣教命令も、言ってみれば権限移譲の命令です。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:18-19)」。いま聖霊によって、その力と権威が私たちにも与えられているのです。

ミニストリーにおいて、健全な権限移譲は必要不可欠です。開拓当初の教会においては、牧師とその家族が、週報の印刷から伝道牧会まで、何でもやらなければいけないこともあるでしょう。しかし教会の成長に伴って、徐々に、その働きを他の兄弟姉妹にも移譲して行かなければならなりません。権限移譲には4つのステップがあります。①I do, you see.(私がやって、あなたは見ています)。②I do, you help.(私がやって、あなたは助けます)。③I help, you do.(あなたがやって、私は助けます)。④I see, you do.(あなたがやって、私は見ています)。そうしてミニストリーを受け継いだら、今度は自分もその奉仕を握りしめず、先ほどの4ステップを踏んで、後の人に引き継いで行くのです。これが、以前も説明した、健全な奉仕のバトンタッチです。

しかし権限移譲であり、全権委譲ではないことを忘れてはいけません。大きな責任を任されると、嬉しくなって(それ自体は素晴らしいことですが)、間違った所有者意識をもってしまうことがあります。つまり「これは私が任されたことなんだから、私が決める。誰からも(牧師にも)口出しして欲しくない」とすべてを抱え込んでしまうのです。しかしそれは神様の喜ばれる姿ではありません。人(特にリーダーや指導的な立場にある人)の忠告や指導を受け入れる、謙遜さを失ってはいけません。そうでないとそのミニストリーは祝福されず、あなたのためにもならないからです。

あなたは自ら進んで教会の責任を担おうとしているでしょうか?何でもいいのです。何かの責任を担いなさい。しかし握りしめてはいけません。「開かれた心でしっかり仕える」それが大事!

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。
この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために
見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、
嘆いてすることにならないようにしなさい。
そうでないと、あなたがたの益にならないからです(ヘブル13:17)

2011年6月11日土曜日

ステップ5 「経験(Experience)」 Ⅱコリント1:2-11、11:23‐12:10

SHAPEの学び(5ステップ)もいよいよ最後となりました。この最後のステップは特に重要な意味を持ちます。それはあなたの全人生に関わることであり、クリスチャンとしての生き方そのものに関わることだからです。リック・ウォレンはこう言います。「この最後のカテゴリーである苦痛の経験こそ、神様があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。あなたの最も重要な働きは、あなたが最も苦しんだ経験から生まれてくると言っても過言ではありません(人生を導く5つの目的p323)」。

苦痛経験が、自動的にミニストリーの益になるのではありません。同じ苦痛を経験したとしても、ある人は、そこから、自己憐憫や被害者意識、ねたみや憤りを獲得して行くのです。しかしある人は、同じ経験から、謙遜と希望と愛を獲得して行くのです。何が違うのでしょうか?それは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ロマ8:28)」この聖書の真理を、心から信じているかどうかです。たとえ不本意で、消してしまいたいような経験であったとしても、神様にはそれを益に変える力があると信じ、人を許し、自分を許し、(おかしな表現かもしれませんが)神様さえも許す必要があるのです。そうして初めて、あなたの人生に変化が訪れます。

しかし、苦痛経験には落とし穴もあります。もし私たちが、自分の経験に寄り頼み過ぎたり、絶対化したり、人にも押し付けようとするなら、その経験はかえって「人生の仇(あだ)」となってしまいます。経験は人それぞれです。あなたの人格形成や霊的成長のために、その経験は必要だったかもしれませんが、他の人にはまったく別の人生が用意されているのです。またあなたに与えられた解決の道と、他の人に用意されている解決の道とはまったく違うかもしれません。それなのに、自分の経験を絶対化し「あなたも、もっとこういう苦労を経験するべきだ」とか「こうやって解決しなさい」と人にも自分の経験を押し付けるなら、その経験はあなたにとって益とならなかったのです。あなたは、その経験によって「謙遜」ではなく「傲慢」を身につけたからです。

大切なのは、苦痛経験を通して神をより頼むものになることです。パウロは数々の試練を経験し、次の結論に達しました。「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(Ⅱコリ12:9)」。これは苦労そのものや、肉体的な弱さそのものを誇ると言う意味ではありません。そうではなくて「私は自分の弱さを通して、完全に働いてくださる神様と、その御力を誇る」と言っているのです。試練の荒波にもまれ、自分自身に白旗を上げ、100パーセント神様により頼むものとなる、これこそ試練の意味なのです。別の箇所で、パウロはこうとも言っています。「本当に自分の心の中で死を覚悟しました。これはもはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした(Ⅱコリ1:9)」。

そして初めて、その経験が神と人との役に立つのです。パウロはこう言っています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです(Ⅱコリ1:4)」。ここにもある通り、人生の苦痛を経験し、そこに注がれる神様の憐れみと愛を経験した人は、本当の意味で人をも慰めることができるのです。なぜなら、その人は、苦しみの中にいる人々の心に、本当の意味で寄り添うことができるからです。自分の経験を押し付けず、お説教せず、まずは相手の心にしっかり寄り添う。それがすべてのミニストリー(奉仕)の基本です。

あなたはどのように自分の賜物を輝かせますか?自分の能力や経験をアピールしますか。申し訳ありませんが、教会はそのようなところではありません。教会とは自分の弱さや罪深さと向き合い、そこに注がれる神様の偉大な力を信じる人々の集まりです。特別なことはできなくていいのです。ただ心から神と人を愛してください。そんなあなたの存在が、かけがえのない賜物です!

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい
(ルカ22:32)

2011年6月4日土曜日

経験(Experience)アンケート

 あなたは、人生経験を積み重ねて行く中で、人格的に整えられてきました。それらの経験はどれも、あなた自身ではコントロールすることのできないものだったにちがいありません。神様は、あなたという人間を作り上げて行くために、それらすべてのことが起こることを許されたのです。

 神様に仕えて行くにあたって、自分のかたちを理解することは大切です。そのために過去を振り返りながら、主にあって今までの経験を受け止め直す必要があります。しかも「情熱」のステップでは、過去における「喜びのツボ」とか「成し遂げたこと」などについて考えましたが、この「経験」ステップでは、より深い「痛み」とか「悲しい経験」に目を向けたいと思います。

 ある人にとっては辛いことかもしれません。どうぞ、差し障りのない範囲でお答えください。そして必ず「そこから学んだこと」も加えて考えるのです。グループでの学びの際は、時間の都合上、全部ではなく1~5の質問から一つを選んで、お答えいただくのが良いと思います。




1. 人間関係の経験
 今までの人間関係で、心を痛めた経験はありますか?




 そこからあなたは何を学びましたか?



2. 仕事の経験
 仕事をするなかで、辛かったことはありますか?




 そこから、あなたは何を学びましたか?




3. 霊的経験
 信仰(教会生活)を貫く中で、何か特に苦労したことはありますか?




 そこから、あなたは何を学びましたか?




4. 身心の健康面での経験
 あなたはいままで、何らかの肉体的、精神的な痛みを経験してきましたか?




 あなたはそこから何を学んできましたか?




5. 家庭の経験
 (生まれのor結婚後の)家庭において何か悲しかった経験はありますか?




 そこからあなたは何を学びましたか?





● あなたは、1~5のような経験を、
  どのように神と人(教会とミニストリーと宣教)とに役立てることができますか?







以上のことを踏まえたうえで
あなたは下記の御言葉を本当に信じていますか。
宣言する気持ちを強く持って
もう一度大きな声で読みましょう。

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8章28節



アーメン!

次回は、以上の内容を踏まえて
聖書から更に学びを深めたいと思います。

2011年5月26日木曜日

ステップ4 「気質(Personality)」 使徒15:36-41、Ⅱテモテ4:9-18

SHAPEの学びの、いよいよ第4ステップです。前回は「気質(Personality)」アンケートを行いました。あなたの気質は何でしたか?その結果に自分で納得がいきましたか?あのような心理テストのような方法がベストだとは言いませんが、大切なのは、私たちが「自分自身を知る努力」を怠らないということです。内向的になり過ぎるのは問題です。また、近年のスピリチュアルカウンセリングのような、明らかに異教的な手法も避けるべきです。でも、学問的に研究され、歴史的に検証された知恵からは、それがこの世の学問であったとしても、謙遜に学ぶところはたくさんあると思います。それらをすべて「この世的」とはねつけるのは、クリスチャンの傲慢です。

まな板の鯉となりなさい。箴言にこうあります。「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表す(18:1-2)」。「分別のある貧しい者は、自分を調べる(28:11)」。少し極端なこといえば、どんなに聖書をたくさん読んでも、どんなに祈っても、どんなに素敵な賛美を捧げても、自分自身に対する健全な理解がなければ、その人の霊的成長はあるところで止まってしまいます。なぜなら、主のみこころを、自分自身のこととして聞く、心のアンテナが育っていないからです。その人は「聖霊によって示された」と言いながらも、結局自分の悟りの範囲をぐるぐると回っているだけなのです。健全な信仰には、健全な人間(自分)理解と、健全な神様(御言葉)理解の両方が不可欠です。

気質について、パウロとバルナバを比べてみることは、非常に興味深いです。この二人は、マルコという一人の青年をめぐって激しい反目となりました。パウロは第一次伝道旅行の際「一行から離れてしまい(直訳:見捨ててしまい)、仕事のために(宣教という使命のために)同行しなかったような者は、一緒に連れて行かない方が良い」と主張しました。しかしバルナバは、マルコも連れて行きたかったのです。ここから分かる彼らの気質は何でしょうか?パウロの気質は、自分にも人にも厳しくて、妥協を許さないコレリック(胆汁質)です。それに対してバルナバは、平和的で、人と人とを繋ぐフレグマティック(粘液質)だと言えます。その違いの背景には、マルコがバルナバのいとこであったことも影響しているのかもしれません。しかし、元々パウロをクリスチャンの交わりに紹介したのも、探し出してアンテオケ教会に連れてきたのもバルナバでした。

良い悪いではなくて、これは「違い」なのです。パウロのような人たちばかりだったら大変です!あまりにも厳しすぎて、ついて行けない人が続出でしょう。しかも彼には、公衆の面前で、使徒としての大先輩であるペテロだけでなく、命の恩人バルナバでさえも、ひどく非難するようなところもありました(ガラテヤ2:11)。でも、このパウロが、バルナバよりも大きな働きを成し遂げたのは、歴史的な事実なのです。二人が別れて後、バルナバの働きは、ほとんど聖書に記されていません。大きな働き(ミッション)を成し遂げるためには、パウロのような人物が必要不可欠です。そしてそのパウロのような人物は、バルナバを必要としているのです。バルナバがいないと、パウロはどんどん孤立してしまうのです。教会には、パウロもバルナバも必要なのです。

違ったもの同士が、認め合うことが大切です。完璧な人は誰もいません。誰にでも、強いところもあれば弱いところもあるのです。強みには感謝し、弱いところには気をつけましょう。それによって同じ過ちを繰り返すことから守られます。また人の気質に関しては、良いところをたくさん見つけて、折にふれ褒めてあげましょう。そうすることによって互いに高められるのです。パウロは後に、マルコを「同労者(ピレ24)」と呼び「彼は私の務めのために役に立つからです(Ⅱテモテ4:11)」と褒めています。またバルナバとも和解したことが暗示されています(Ⅰコリ9:6)。

気質を知りながらも、気質に縛られず、成長(成熟)させてくださる方に期待しましょう。ミニストリーに実際に従事する中で、神様からの取扱いを受けると、生まれながらの気質が聖められ、より神様のお役に立つようになるのです。後のパウロはオネシモという逃亡奴隷についてこう書いています。「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています(ピレモン11)」。以前のように人を切り捨てず、成長させてくださる神様に期待するパウロの信仰があふれています。そしてこの言葉は、パウロ自身のことでもあるのではないでしょうか。サウロ時代の彼は、もちろん神様の役に立たず、主の教会を迫害するものでした。しかしその彼がイエス・キリストに出会い、人生を180度変えられ、救われてからも少しずつ聖められ、神様のお役に立つ者となっていったのです。

自分と違った人、理解できない人を受け入れなさい。いや、もう一歩進んで、自分に欠けているところを補ってくれる、大切な存在として敬意を払いなさい。あなたにとってその人の存在が必要なのです。自分自身をよく知れば、自分の良いところを正当に評価し、弱いところを受け入れられるようになります。すると自分と違った人のことも、受け入れられるようになるのです。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりも
すぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、
他の人のことも顧みなさい。
ピリピ2章3-4節

2011年5月20日金曜日

あなたの気質(Personality)アンケート

<はじめのお願い>
今回の内容には心理学(心理テスト)的な手法も含まれます。もしもそのような手法に抵抗を感じられる方がいましたら、下記の内容をお読みにならないことをお勧めします。「自己啓発だ」「心理学的とキリスト教を同列に扱うのか」「祈りと御言葉で十分だ」などの批判は重々承知しています。では、なぜこのような手法を用いるのか、そのことについてはまた次回説明いたします。どうぞ、あまり真に受け取り過ぎず、ユーモアを持ってお楽しみください^^)。
* 参考文献:平野耕一「血液型より気質分析」プリズム出版


● まず最初にアンケートに答えてみましょう。



タテに自分の印した数を合計すると、いくつになりますか?
一番多かった(もしくは複数)項目の、A.B.C.D.をお読みください。
もっと知りたい方は、上記の参考文献をお読みください。



●Aサングイン(多血質)

<強さ>
太陽のような感じの人。その人がいると太陽が昇るようにその場が明るくなる。5~6人集まり、ひときわ声を張り上げてしゃべっているのは大体サングインの人。テンポが良く、会話の主導権を自然に握っている。ステージが得意で、突然任せてみても、それなりに上手に立ち振る舞える。新しい事に対しても反応が良い。

<弱さ>
本人は楽しく話しているのですが、周りをうんざリさせたり、人の話に割り込んだり、調子に乗り過ぎた発言で不快感を与えてしまうことも。楽天的で、新しいことに飛びつくが、計画性はない。実際に失敗しないと分からない。失敗しても懲りずにまた繰り返す。好きなことに集中し、嫌なことは後回し、ついに忘れてしまう。

<聖書の例>
サマリヤの女、せっかちペテロ
<有名人>
明石家さんま



●Bコレリック(胆汁質)

<強さ>
気分や感情に流されず、意志が強い。常に高いビジョンを掲げ、そこに至る道筋まで見えているタイプ。周りに反対されても、自分の意志を曲げず、むしろ闘志を燃やす。組織のリーダーに向いていて「あなたには出来るからやってみなさい」と人にも高い目標を与え、潜在能力を引き出す。人を動かす決断力と指導力がある。

<弱さ>
目標が高過ぎて理解されず孤立することも。人に対する要求も高く、着いて来られない部下を切り捨ててしまう危険性も。有能であるがゆえに確信が強く「私に従っていればいい」と支配的になりがち。自分の正当性を主張することに熱くなり、人を悪者にし、関係を壊してしまうことも。基本的に自分が正しいと思っている。

<聖書の例>
炎の伝道者パウロ
<有名人>
星野仙一



●Cメランコリック(憂鬱質)

<強さ>
明らかに天才肌が多い。アリストテレスは「すべての天才はメランコリックである」と言った。物事の本質を見抜き、突き詰め、とことん掘り下げる。完璧な仕事(作品)を追求する。サングインのように口を挟まず、コレリックのようにお説教をせず、人の話をじっくり聞き、良く考えてから、ハッとする鋭い言葉を発する。

<弱さ>
いつも「どうして、どうして」と自分を追い詰める傾向。完璧主義者であるために、なかなか満足できず喜べない。人間関係に完璧はないので、落ち込んだり、悲観的になりやすい。自分の内面にも敏感で、深く考えすぎて、うつ状態になりやすい。物事の本質を見つめるがゆえに批判的で懐疑的だと思われてしまうことも。

<聖書の例>
キリスト論の本質を突くヨハネ
<有名人>
イチロー



●Dフレグマティック(粘液質)

<強さ>
サングインでもコレリックでもメランコリックでもなく、四つの気質がバランスよくあるならフレグマティックです。これはバランスの良い気質で、極端に走らず、自分の主張を通すことより、平和な人間関係を望みます。控えめで、出過ぎず、優秀なNo2に向いています。友人が多く、人と人とを繋ぐ働きに向いている。

<弱さ>
バランス志向であるがゆえに、その人自身の主張が見えにくい。周りに順応しようとするので、思い切った改革者には向いてない。人やムーブメントをまず静観してから慎重に動くので、仲間からはもどかしく冷淡にさえ思われることも。しかし一度スイッチが入ると大きな力を発揮し、持続力がある。何事もゆっくりで慎重。

<聖書の例>
文句なしにバルナバ!
<有名人>
息の長い調和という点でスマップ



どうでしたか?当たっていると思いましたか?
違っていても、単なるウォーミングアップとご理解ください。
次回この内容を参考に、聖書から、学びをさらに深めます。
自分を知ることによって、
隣人に対する理解も、聖書の理解も更に深くなります。^^)/

2011年5月12日木曜日

ステップ3 「能力(ability)」 使徒21:37-22:9、ピリピ3:1-16

SHAPE(5ステップの頭文字)の第3ステップを学びます。前回は「能力(ability)」アンケートを行いました。リックウォレンは、人の能力は26種類に分けられると言いましたが、このテキストでは少し手を加え「31種類の種類」にまとめました。またそれに加えて「動物の学校」のたとえ話も読みました。出来れば、もう一度、あのたとえ話を読み返すことをお勧めします。

あの「動物の学校」のたとえ話には誤解があります。あの話は決して、不得意なことは投げ出して、得意分野だけに専念しなさいと教えているのではありません。その証拠に「すべての動物がすべての科目を履修していました」と最初にことわられています。彼らは自分に課せられた義務や責任をちゃんと果たしていました。その上で、彼らには特に秀でた得意分野があったのです。でも彼らはその分野に努力をするのではなく、ひたすら苦手克服に力を注いでしまいました。その結果、わずかな成果はあったものの、もともと得意なことは、人並みかそれ以下になってしまいました。神様は、人それぞれをユニークな存在として創造しておられます。そのことを無視して、他人と比べて、出来ないことばかりを気にしたり、他の人と同じようになることばかりを追い求めるのは、なんともったいないことでしょうか。誰よりも、そう造られた神様が悲しまれます。

あの話は二つのことを教えています。一つは、自分に与えられている能力を更に伸ばしなさいということです。以前も話したように「二次的な奉仕」も大切です。でも自分の得意分野には更なる投資を惜しんではいけないのです。それはきっと何かの形で、神と人との役に立つことでしょう。もう一つは、他人の能力も祝福しなさいということです。アヒル君が上手に泳げなくなった時、先生もクラスメートも「もうアヒル君の能力におびやかされることがなくなったので喜んだ」とあります。また誰にも真似でいない方法で高く飛んだワシ君は「つねに問題児とみなされて」いました。なんと不幸なことでしょうか!「その人らしさ」が「他の人とは違う」という理由だけで問題視されてしまうのです。教会はそうであってはいけません!自分に出来ないことをしていても、今までのやり方とは違っていても、その人が喜んで神と人とに仕えているなら、それを「ともに喜ぶ大らかさ」が大切です。罪悪感を与えたり、ガッカリさせたりするべきではありません。

パウロにも多くの能力が与えられていました。彼は外国で生まれたユダヤ人であり、ギリシヤ語にもヘブル語にも通じていました。そして当時の一等国民であるローマ市民権を持ちながら、パリサイ派の最高師範の一人であるガマリエルの弟子でもありました。つまりギリシヤ・ローマ人に対しても、ユダヤ人に対しても、何一つ引け目を感じることのない「選ばれた人」だったのです。しかし、かつての彼(サウロ)は、その能力を持って何をしていたでしょうか?クリスチャンを追いかけて外国まで行き、見つけ出しては引いて来て、牢(ろう)にぶち込んでいたのです。彼の能力は、神様の役にも人の役にも立ちませんでした。それどころか、教会を破壊していたのです。

彼の能力が本当に生かされたのは、自分自身に死んでからでした。後の彼はこう言っています。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています(ピリピ3:8)」。ちりあくたというのは、それらを全く無価値だと思っているということです。皮肉なものです。自分の能力に頼っている内は、本当の意味でその能力が生かされず、自分の能力のみならず、自分自身に死んだ時に、初めてその能力が永遠のために生かされるのです。それは「神の御前で誰をも誇らせない」という神の知恵によります(Ⅰコリント1:29)。聖書にはこうともあります。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって(ゼカリヤ4:6)」。

あなたにはどんな能力が与えられていますか?その能力に磨きをかけて下さい。しかしその能力にではなく、主により頼んでください。その時、あなたは、本当の意味で輝き始めるのです!

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、
わたしのために自分のいのちを失う者は、
それを救うのです。(ルカ9:24)

2011年4月28日木曜日

「動物の学校」~能力を伸ばす教育とは~

● 次の物語「動物の学校」を読みましょう


 動物たちの学校がありました。カリキュラムには、走る、登る、飛ぶ、泳ぐなど、様々な科目があり、すべての動物がすべての科目を履修していました。

 アヒル君は泳ぎが得意で、飛ぶことにもそれなりの能力を見せましたが、走ることはまったくだめでした。そこでアヒル君は、得意な「泳ぎ」のクラスを捨ててまで、「走り」に専念することにしました。その結果、泳ぎの能力は人並み程度に落ちてしまいました。けれども、先生や他の生徒たちは、もうアヒル君の飛び抜けた「泳ぎ」の能力におびやかされることがなくなったので、以前よりも快適に過ごせるようになったといって喜んだのでした。

 一方、ワシ君は問題児とみなされていました。例えば「木登り」のクラスでは誰よりも先の木のてっぺんに到達することができたのですが、それは彼にしかできない独自の方法を使ったためで、そのことが問題視されていたのです。そのような態度を改めるため、厳しい処置がなされましたが、結局ワシ君は「泳ぎ」のクラスに非協力的であったため、不従順のかどで退学処分となったのでした。

 ウサギ君は「走り」のクラスでは断トツのトップでしたが、他の科目に関しては、明らかに平均以下でした。何とか他の科目でも平均以上をと考えた彼は「泳ぎ」のクラスでの過剰な居残り練習が災いし、ノイローゼのために学校をやめなければならなくなりました。

 カメ君は、すべてのクラスで落第点でした。甲羅が邪魔になっているに違いない、という判断が下された結果、彼の甲羅は取り外されることになりました。おかげで「走り」のクラスではいくらかの進歩がみられましたが、悲しいことに、ウマ君の蹄(ひづめ)の犠牲者となってしまったのでした。

 先生方は、これらの出来事にひどく失望しました。結局、謙遜を学ぶという意味では良い学校だったのかもしれませんが、誰も自分の才能を伸ばすことができず、真の成功を手にすることができなかったのです。彼らは自分の弱点の克服に集中するあまり、長所を伸ばすことをなおざりにしてしまったのでした。

(リック・ウォレン「あなたの賜物が輝く5ステップ」より)


質問:あなたは、この物語を読んでどう思いましたか?何を教えられましたか?
   あなたが先生だったらどういう指導をしますか?
   どうぞ自由に分かち合ってください。



***次回この内容を元に、聖書から、学びをさらに深めます。***

2011年4月14日木曜日

ステップ2 「情熱(Heart)」 マタイ22:34-40、コリント第二9章6-15節

SHAPEの学び(5ステップの頭文字をとったもの)に入っています。前回は、その第二ステップ「情熱(Heart)」に関するアンケートを取りました。題して「こころの心電図アンケート」!自分の心が、特に何に対して反応するのか、そのことを客観的に自己分析しました。結果はいかがだったでしょうか?意外な結果だったでしょうか?それとも予想通りの結果だったでしょうか? なぜそのようなアンケートをしたのか、それは、いくら「霊的賜物」がある分野であっても、そこに「あなたのこころ」がなければ、真の「喜び」と「充足感」を得ることができないからです。

クリスチャンではありませんが、世界の黒澤こと「黒澤明監督」がこんな言葉を残しています。「自分が本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。君たちは、努力したい何かを持っているはずだ。きっとそれは、君たちの心のこもった、立派な仕事になるでしょう」。同じことがミニストリー(主のための働き)にも言えます。私たちは、それぞれ違った「こころのツボ」を与えられています。ある人にとっては「喜びのツボ」であるのに、ある人にとっては「苦痛のツボ」である場合があります(夫婦でもそうじゃないですか)。私たちは生まれながらにして、また育つ環境において、ある事柄に、特別な関心を抱くように造られて(デザインされて)いるのです。神様はそういった私たちの個性も大切にしておられます。

好きなことだけをしていればいい、と言っているのではありません。リックウォレンは、それを「二次的なミニストリー」と呼んでいます。私たちは、あまり賜物のない分野でも、キリストのからだの欠けを補うために協力しなければいけない時があります(コロサイ1:24)。教会には、いつも多くの必要が山積(さんせき)しています。また前回も引用しましたが、聖書にはこうあります。「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」。この御言葉からも、好きなことだけをしていれば良いのではない、ということが分かるでしょう。特に、日本の教会は小さく、一人の信徒や牧師がいくつもの役割(奉仕やミニストリー)を兼ねなければいけない場合があります。その点において、日本ではこの二次的ミニストリーがより重要だともいえます。

しかし、好きなことに打ち込むことは、何も悪いことではありません。戦後のキリスト教は、欧米のピューリタン(清教徒)の影響を多分に受けていて、非常に禁欲的なところがありました。トランプはダメ、喫茶店はダメ、映画はダメ…。そして、自分の趣味でさえも「罪」だとみなす傾向がありました。それが100%間違いでもなく、もしその趣味が、神様や礼拝よりも大事なってしまったら、やはりそれは「罪(偶像)」でしょう。しかし、だからといって「趣味自体が罪」だというのは、やはり極端だと言わざるをえません。むしろ私たちは、その趣味さえも主にささげて、それを「福音宣教」のために活かすことはできないでしょうか?教会の中だけにいたら、いったい誰に伝道するでしょうか?むしろ私たちは、趣味を通じて積極的に人間関係を作り、じっくり、少しずつ、証しをしていくのです。また教会でもカルチャークラスを通して神の愛を伝えます。

大切なのは目的です。好きなことを、ただ自分の満足のためだけにするのは、神様を愛する者にとっては空しいものです。またそれが行き過ぎて、優先順位を間違えると罪となります。大切なのは、神の国とその義とをまず第一とすること(マタイ6:33)、そして、その好きなこと(趣味や特技)を通して、神と人とを愛し、神と人とに仕えることです(マタイ22:37-40)。その時、あなたは、本当の充足感を味わうことでしょう。そして、証しが、驚くほど喜びとなるのです!

あなたが知らず知らずのうちに、夢中になってしまうことは何ですか?それをどのように、神と人とのために役立てることができますか?もう一度祈り、磨きをかけ、心から喜んで神と人とに仕えることができますように。神様は何をするかではなく、あなたの「心」に興味があるのです。

そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
  あなたの神である主を愛せよ。』(37)
  これがたいせつな第一の戒めです。」(38)
(マタイ22章37-38節)

ひとりひとり、
いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
(Ⅱコリント9章7節)

2011年3月22日火曜日

ステップ1「霊的賜物(Spiritual gift)」 Ⅰコリント9章16-17節 ローマ12章4-8節

いよいよ前回から5ステップ(SHAPE)の学びに入っています。SHAPEとは、それぞれのステップ・テーマの頭文字を合わせたものです。前回は(ウェブにはアップしていませんが)「霊的賜物(Spiritual gift)アンケート」を行いました。95の質問に答えることによって、客観的に自分の霊的な賜物を発見することがその目的でした。賜物の種類は以下の聖書箇所をもとに(ローマ12章、Ⅰコリント12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章)、重複するものはまとめて「19」に分けました。「預言」「牧会」「教えること」「知恵」「知識」「勧め」「霊を見分ける」「分け与える」「助ける」「慈善」「伝道者」「信仰」「リーダーシップ」「管理運営」「奇跡」「いやし」「異言」「異言の解き明かし」「使徒」。結果がいかがでしたでしょうか?

「御霊の賜物」と「御霊の実」の重要性。福音派の教会では、なぜか御霊の賜物よりも、御霊の実(ガラテヤ5章)が重んじられる傾向があります。それには理由があります。確かに聖書には、Ⅰコリント12章で御霊の賜物のリストが紹介されたのち「更なる道を示して上げましょう(12:31)」と「愛の賛歌」が続いているのです。つまり、どんなに賜物に富んでいても「愛がないなら何の値打もないのです(13:2)」。だからと言って、御霊の賜物を軽んじてはいけません(Ⅰテモテ4:14)。それどころか聖書には「あなた方のうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい(Ⅱテモテ1:6)」とも記されています。この聖霊の賜物は、教会が健全な形で建て上げられるためにも、またその教会がいのちにあふれ、力強く前進するためにも、必要不可欠な要素なのです。

しかも、その賜物がバランス良く与えられていることが大切です。私たちは教会に「この賜物は欲しいけど、この賜物はいらない」とは言えないのです(Ⅰコリント12:21)。それなのに、多くのキリスト教会では、一部の賜物は強調するものの、一部の賜物についてはほとんど語っていないのが現状です。もし主が、本当に「私たちの教会に息を吹き込まれるなら(エゼキエル37章)」私たちの教会は、想像しているのとは全然違う教会になるかもしれません。私たちには、聖霊がなされることをそのまま受け入れる心の準備ができているでしょうか?自分が知らないことや、見たことや聞いたことがないことが起きても、主にあって一致することができるでしょうか?

聖霊の賜物には、二つの注意が必要です。一つは「妬み」です。この問題は前にもふれましたが、自分にない賜物を他の人が持っていると生じます。自覚はなくても、なぜが対立してしまう人との間にはこの問題が存在する場合があります。もう一つは「賜物投影(とうえい)」です。聞きなれない言葉かもしれませんがリックウォレンはこう説明します。「このことは非常に多く起きることであり、教会内に多くのトラブルをもたらす要因となります。それは他の人にも自分と同じような仕え方を期待したり、同じような結果を出すことを要求したりする態度のことです(73)」。兄弟姉妹に対して「何でもっとこういうやり方をしないのか」「なぜこんなに簡単なこと出来ないのだろうか」とイライラすることがその症状です。そう感じる時は、あなたにはそうできる「賜物」が与えられていることを感謝しましょう。他の人に、同じことを要求してはいけません。

賜物がないことを言い訳にしてはいけません。例えば、伝道の賜物のない人は伝道しなくてもいいのでしょうか?いいえ、聖書には「もし私がこれ(伝道)を自発的にしているのなら報いがありましょう。しかし強いられたにしても私には務めがゆだねられているのです(Ⅰコリント9:17)」とあります。全てのクリスチャンには、大宣教命令が与えられているのです。また慈善の賜物がなければ、困った人がいても無視して良いのでしょうか?いいえ、できることには個人差があるかもしれませんが、それでも自分に出来ることを、心を込めてすることは大切なことなのです。先日(2011年3月11日)東日本大震災が起こりましたが、いま、私たちの愛が試されています!

改めて、あなたの霊的な賜物は何でしょうか?どうかその賜物を燃え立たせて、神と人とに、熱く仕えることができますように。多く任された人は、多く要求されるのです(ルカ12:48)。また賜物のない分野にも、勇気を持ってチャレンジしてみましょう。新しい世界が開けるかもしれませんし、賜物の少ない分、余計に神様の力を多く、体験することができるかもしれません。

もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。
しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
(Ⅰコリント9章17節)

モーセは主に申し上げた。
「ああ主よ。私はことばの人ではありません。
以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。
私は口が重く、舌が重いのです。」
主は彼に仰せられた。
「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、
あなたの言うべきことを教えよう。」
(出エジプト4章10、11、12節 要約)

2011年3月2日水曜日

「超教派のなかで自分の賜物を活かす」 使徒13:1-3、14:26-27、Ⅱテモテ4:1-5

前回はキリストのからだ(教会)を通じて、自分の賜物を輝かせることを中心に学びました。その原則に変わりはありませんが、賜物活用の場は教会の中だけに限られるわけではありません。教会の外にも、教団や超教派などの働きがあります。そこには同じ年代や同じ趣味の人、そして賜物豊かな人々が、様々な教団教派から集まり、協力して宣教をしています。身近なところではKGK(キリスト者学生会)やCCC(キャンパスクルセード)Hi-B-A(高校生伝道団体)また最近ではゴスペルの働きも盛んです。そこでは地域教会とは一味違う出会いや楽しみもあるかもしれません。私たちは一体どのように、そういった超教派団体と関わっていけばよいのでしょうか?

そもそも教会とは何でしょうか?それは教会堂(建物)ではなく、信徒の集まりのことです。また更に大きく二つに分けられます。一つは地域教会です。可視的な教会とも言われますが、地域に密着し、礼拝と聖礼典(聖餐式と洗礼式)を行い、交わりをともにしている信徒の群れのことです。もう一つは世界大の教会です。これは不可視的な教会とも言われますが、世界に散らばっているクリスチャンを総称して教会と呼ぶのです。ちなみに使徒信条の「聖なる公同の教会」とは後者のことです。私たちは地域教会の会員でありながら、この公同の教会にも属しているのです。

身近なところからという原則。イエス様は「世界人類が平和でありますように」ではなく「あなたの隣人を愛せよ」と教えられました。また人々の間に住み、言葉と行いをもって愛を示され、十字架でいのちを捨てて下さいました。時々「私は世界大の教会に属していますから、特定の教会の会員にはなりません」という人がいますが、残念な言葉です。自由でいたくて束縛されないということでしょうか?確かに、ひとつの教会に属するのは責任を伴うことでもあります。しかし、そういった現実の中で、互いに仕え、愛し合うことにより、私たちはキリストの愛を学んでいくのです。愛することは互いに属すること。私たちは主にあって、一つのからだなのです!

地域教会あっての超教派です。アンテオケ教会は、聖霊によって示され、祈り、按手し、パウロとバルナバを異邦人宣教に派遣しました(使徒13:2-3)。そして彼らは帰ってくると真っ先にアンテオケ教会に報告しました(14:26-27)。彼らは、深く繋がっていました。よく超教派か地域教会かという議論がありますが、どちらも大切です。確かに地方の教会では人手が足りず、数少ない若い人には期待するところも大きいでしょう。しかし、聖霊によって示されるなら、彼らを地域教会の中だけに留めておくのではなく、祈り、励まし、思い切って遣わそうではありませんか。受けるよりも与える方が幸いなのです。また遣わされる側も、教会によって派遣されていることを自覚し、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝え(Ⅱテモテ4:2)、教会への報告(アカウンタビリティー)を大切にしたいものです。活動の幅を広げれば広げるほど、根っこを大切にするのです。

気ままな信仰に気をつけなさい。上記のような地域教会との繋がりがおろそかにされるとき、その働きは祝福を失ってしまいます。そして自分に都合のいいことを言ってもらうために、教師や地域教会を渡り歩く「教会難民」を生み出してしまいます(Ⅱテモテ4:3-4)。また万が一、地域教会を軽んじたり、批判したりする団体(働き人)があったら、そこからはすぐに離れなさい。どんなに魅力的であっても、それは主から出たミニストリーではありません。確かに完璧な教会はありません。しかし私たちは、その欠けを満たすために存在しているのです。聖書にはこうあります。「ですから私は、…キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです(コロサイ1:24)」。

あなたは教団や超教派の働きに関わっていますか?聖霊の導きを求めつつ、あなたの賜物が、教団や超教派の中でも豊かに輝きますように。それと同時に、あなたの母教会を、ますます愛することができますように。主の言葉と教会にしっかり深く根差す時に、大きな花が咲くのです。

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、
「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、
わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
そこで彼らは、断食と祈りをして、
ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
(使徒13:2-3)

2011年2月24日木曜日

「あなたのチームワーク力は何点?」 ローマ12章3-16節、Ⅰコリント3章1-7節

「あなたの賜物が輝く5ステップ」と題して学びを進めていますが、まだその5ステップに入っていません。その前の段階の学びに力を注いでいます。なぜなら、これが単なる自己啓発のセミナーとは違うからです。「この12回のセミナーを受けたらあなたの賜物が見つかります」「この講義を最後まで受けたらあなたの人生が変わります」という宣伝文句が巷(ちまた)には溢れています。確かに、お手軽で分かりやすいでしょう。でも信仰はハウトゥー(How to)ではありません。どんなに分かりにくくても、まわりくどくても、まずはしっかりと聖書に聞くことから始めるのが信仰です。「何のための賜物なのか」「その賜物はどのように用いられる性質のものなのか」そういう「そもそも論」こそが大切なのです。今日学ぶのは「チームワーク力」についてです。

個人で活躍するアーティストは、自分の賜物を輝かせ、自分の名を売ることに全神経を注ぐでしょう。それが仕事なのですから仕方がありません。しかしクリスチャンは、キリストのからだ(教会)の一員として「チームを通し」かしらなるキリスト(エペソ5:23)の栄光を現すのです。聖書にはこうあります。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです(ローマ12:5)」。心臓や肝臓や腎臓が、それぞれ目立とうとして「見て見て」と手を振るでしょうか?臓器が過度な自己主張をし始めたら、それは病気のしるしです。

チームワークが大切です。確かにからだには、器用な手とか、走れる足とか、上手に歌える唇とか、目立つ器官もあります。目立つこと自体が悪いのではありません。でもそれであっても、目に見えない器官に支えられており、からだから切り離されたら、何の役にも立たないのです。一人だけで目立とうとすることは何と滑稽なことでしょうか?つまりこういうことです。「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『私はあなたを必要としない』と言うこともできません(Ⅰコリント12:21)」。私たちは互いに互いを必要としており、キリストのからだにあっては、弱くて目立たない器官こそが大切なのです。

個人の力ではなく、からだ全体で栄光を表すことが大切です。コリント教会は、非常に賜物豊かな教会でしたが、ねたみや争いが絶えず、「私はパウロにつく」「私はアポロに」と縄張り争いに明け暮れ、教会をバラバラにしてしまいました。そんな分断された「からだ」を通して、キリストの栄光が現れるでしょうか?絶対にそんなことはありません!聖書にはこうあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです(Ⅰヨハネ4:12)」。結局のところ、賜物の多さによってではなく、愛のある交わりによって、キリストの栄光は現れるのです。ビジョン達成のためとか、自分が輝くために、弱い人を切り捨てるようなことがあってはいけません。聖書には「身分の低い者に順応しなさい(ローマ12:10)」とありますが、これは「交わりなさい」という意味でもあります。弱い人を切り捨てて、輝くような栄光は、本当の輝きではありません。

また主の働きはリレーのようなものです。リレーのバトンは、途中で放り投げても、握りしめ過ぎてもだめです。タイミング良く次の人に渡すことが大切です。奉仕も同じではないでしょうか?無責任に投げ出しても、自分ひとりで握りしめてもダメなのです。チームの勝利のためには上手なバトンタッチが必要です。渡されたバトンはしっかり握り、自分の役割を全力で果たしつつも、時が来たら次の人とも一緒に走り(育て)、最後はいさぎよくバトンを渡す(自立させる)のです。いつまでも自分の「活躍」ばかりを願ったら、チームを台無しにしてしまいます。パウロは言います。「私が植えてアポロが水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。それで大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです(Ⅰコリント3:6-7)」。

あなたのチームワーク力は何点でしょうか?あなたの賜物は、チームの中でこそ本来の輝きを放つのです。チームプレーができなければ、いくら素晴らしい賜物も有害無益となってしまいます。

兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって
互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12章10節)

2011年2月17日木曜日

「輝くための 断捨離(だんしゃり)」 ピリピ3章7-16節

前回私たちはタラントのたとえから学びました。主人は、5タラントをもとに、5タラントもうけたしもべに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:21)」。これをマラソン競技にもたとえてみましょう。私たちは、いったいどうしたら、神様に「良くやった忠実なしもべだ」と喜ばれ、主からの栄冠(金メダル)をいただくことができるのでしょうか?少なくとも順位の問題ではありません。私たちが与えられたタラント(賜物・能力)に忠実に努力するならば、誰でも金メダルなのです。でももし、捨てるべきものを捨てないで、大きな荷物を抱えたまま走ったとしたら、こう言われてしまうのではないでしょうか?「○○さん、あなたはもっと速く走れたのではないですか?あなたにはその能力(タラント)があったはずです」。

いくつかの聖書箇所を読みましょう。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…兄弟たちよ。私は、…うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです(ピリピ3:8-14)」。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。…それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブル12:1-3)」。これだけ見ても、いかに信仰において「捨てること」が大切なのかがよく分かります。ペテロも網を捨ててイエス様についていきましたし、アブラハムもイサクを捧げたではありませんか!

リックウォレンもこう言っています。「ある人にとって、今このステップを踏み込む必要があるのかもしれません。ミニストリー以外のもので人生が占められているために、ミニストリーに関われずにいる場合があります。…あれもこれもと欲張っていては、成果は上がりません。もし真剣に神様に仕えたいと願っているならば、自分の人生を振り返り、何かを削ってみる必要があるのです。何かを取り除かなければ、新しいものを加えることはできません。自分の生活から、何を取り除く必要があるのでしょうか。…人生において、大切なものが分かったら、それを自分の人生の中に取り入れるために、それほど重要でないものを、まず取り除く必要があるのです。(p32)」。

本当に、神様(ミニストリー)のために、余裕がないのでしょうか?私たちは時々、神様のためには時間を惜しみながら、重要でないことのために時間を浪費している場合があります。テレビ、ゲーム、インターネットなどなど。また時には止めたいと思っている悪習慣にとらわれて、自分のエネルギーを浪費している場合もあります。その他にも「まつわりつく罪」や「過去」が足かせになって、一生懸命に走ろうと思えば思うほど疲れ果ててしまう場合もあります。私たちは神様のために走れないのではないのです。そうではなくて、捨てるべきものを、その都度しっかり捨てていないから、走れないし、前にも進めないのです。まずは、思い切って捨てることが肝心です!

金持ちの青年は捨てられませんでした。「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)」。結局のところ、彼が捨てられなかったのは、彼の財産ではなくて、プライドだったのではないでしょうか?なぜ彼は「不信仰な私を許して下さい。主よ、こんな私でも、あなたにいてきたいのです!」と涙ながらに訴えることができなかったのでしょうか?イエス様が、本当に求めていたのは、そういった、砕かれた悔いた心だったのではないでしょうか(詩篇51:17)。

今日、あなたが「棄て去るべきもの」は何でしょうか?もう一度、自分の人生を振り返ってみましょう。あなたの賜物が輝くために、まずその障害物が、取り除かれる必要があるのです。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、
それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3章8節)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
(マタイ16章24-25節)

2011年2月10日木曜日

「1タラントに込められた、主人の思い!」 マタイ25章14-30節

賜物について語るのに、避けては通れない聖書箇所があります。それが今回お読みする「タラントのたとえ」です。タラントは、ご存知のように「タレント(特別な能力や才能)」の語源となっている言葉です。話の中の主人は旅に出る際、しもべたち呼んで、それぞれの能力に応じて財産を預けられました。一人には5タラント、一人には2タラント、一人には1タラント。いったいこれは何を意味しているのでしょうか?主は私たちに、何を期待しておられるのでしょうか?

いきなり話はそれますが、平等と何でしょう?少し前の話です。ある小学校の運動会で、負けがでないように、わざと全員一緒にゴールさせたそうです。それが本当の平等でしょうか?もちろん違います。今日の箇所にもはっきり書かれていますが、預けられるタラントは人それぞれ違います。また別の聖書の箇所にも「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます(ルカ12:48)」とあります。生まれ待った能力には差があります。それを受け入れることも大切な勉強です。大切なのは、自分が預かっているそのタラントを受け入れ、それを出来るだけ伸ばす(活用する)ことです。そういったチャンスを平等に与えられるのが、本当の平等です。

タラントの多少はその人の価値とはまったく関係がありません。神様は私たちの能力に応じて、タラントを預けられますが、その能力でさえも、神様から一方的な恵みによって与えられたものです。またタラントに至っては、主の栄光を表す目的のために一時的に預かっているにすぎないのです。聖書にはこうあります。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい(ロマ12:3)」。

そもそもなぜ主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、それは銀行に預けておくことだって出来たのです。その方がリスクは少なく利息だって付きました。でも主人はあえて彼らを信用し、権限を与え、自由に(*)やらせてみたかったのです。彼らの成長を願い、たとえ失敗したとしても、自分の頭で考え、大胆にチャレンジしてほしかったのです。これが神様の愛です。神様の御心は、私たちが言われたことだけをするロボットのように生きることではなく、自由と冒険に満ちた生涯を送ることなのです。(*自由とアカウンタビリティーについてはまた改めて)

1タラントのしもべは、そんな主人の信頼(愛)を全く理解していませんでした。そしてこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いて主人はどんなに悲しかったことでしょうか…。しかも、このしもべが「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、ここまで主人を悪く言ったのだとしたら…。箴言にはあります「なまけ者は言う『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』(22:13)」。

最大の過ちは、彼が主人の家の繁栄をともに喜べず、自分のことばかりにこだわっていたことです。内心、面白くなかったのかもしれません。「どうせ儲けたお金も主人のものなんだから頑張るだけ損だ」「なんであいつが5タラントで、あいつが2タラントで、俺が1タラントなんだ?」etc。1タラントとは6000日分の日当です。それだけでも十分な大金です。でも十分でも、人と比べたとたんに「これっぽっち」と感じてしまうのです。不平不満は心の病です。そこから愚かな行動が生まれ、とげのある言葉が生まれ、結局、持っているものまで失ってしまうのです。忘れてはいけません。私たちは主のしもべであり、その家(御国)の繁栄は私たちの祝福でもあるのです。誰が活躍したかは関係ありません。主が喜ばれるなら、それが私たちの喜びでもあるのです。

神様はあなたのことを、ひとり子を与えても惜しくないと思うほど、愛しておられます。その神様が、あなたに十分なタラントを預けていて下さいます。たとえそれが1タラントでも、私たちには十分なのです。大切なのは、私たちがそれに感謝し、神様の栄光(繁栄)を願い、何事にもチャレンジしてみることです。結果はどうであれ、神様はあなたの「チャレンジ報告」を待っておられ、あなたと一緒に喜びたいのです!

『よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21

2011年2月3日木曜日

「あがめられるため」 Ⅰペテロ4章7-11節、マタイ28章16-20節

前回は「人に仕えること(しもべの心)」と題して学びました。世の中で自分の才能とは、自分の徳を高め、人に仕えられる立場に上り詰めるために活用するものでしょう。そしてそれが私たちの頑張るモチベーション(動機)でもあります。でも聖書の価値観はまったく違います。私たちは、「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい(Ⅰペテロ4章10節)」と言われているのです。これは驚きです。そしてこれこそ、聖書のユニークな(他とは違う)教えなのです。今日は、もう一つの大切なことについて学びたいと思います。

それは「神様に仕えること」です。前回、神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるとお話ししました。その通りです。でも今回は、より「神様」に強調点を移して学びたいと思います。Ⅰペテロの御言葉には続きがあります。長いですが引用しましょう。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン(4:7-11)」。ここにある通り、私たちの賜物は「互いに仕え合う」と同時に「主の御名があがめられるため」に用いられるべきものなのです。この「あがめられる」(ギ:doxazo、英:magnify)とは、「自分ではなく」「神様を大いなる方とする」ことです。

また賜物は「教会の徳を高めるために」用いられるべきものです。Ⅰコリントにはこうあります。「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい(14:12)」。これは異言の賜物が、礼拝の中でどのように語られるべきかを説明している箇所です。パウロは「何が教会の徳を高めるのか、という視点にたって判断しなさい」と教えています。なぜでしょうか?それは、「賜物」には、どうしても「自尊心をくすぐる要素」があるからです。私たちは、それをもって「自分を大きく見せたくなってしまう」のです。でも、そんなことをして「教会の徳は高まる」でしょうか?いいえ!自分を大きく見せようとすればするほど、対立が生まれてしまうのです。

コリントの教会は「御霊の賜物」が豊かに与えられた教会でした。でもその反面、党派心が強く、分裂分派が絶えない教会でもありました。なぜでしょうか?それは、みんなが「自分の賜物を誇り」「自分を大きく見せようとしていたから」です。私たちは、賜物の良い管理者として、その賜物を、「主の御名があがめられ」「教会の徳を高めるため」に用いるべきなのです。どんなに素晴らしい賜物をもっていても、その賜物が原因で、教会に混乱が起っては何にもならないのです。

また賜物とは「宣教」のために用いられるべきものです。このことは何度も登場しますが、強調し過ぎることはありません。なぜならこのことは放っておくと、すぐに第二第三になり、やがて忘れ去られてしまうからです。私たちが救われたのは宣教するためです(Ⅰペテロ2:9)!人が「神のかたち」に似せてつくられた時、神様は命じられました。「生めよ、増えよ、地を満たせ(創世記1:28)」。ちょうどそれと同じように、救われたばかりの私たちに、神様はお命じになっています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」!

もう一度、自分の心をチェックしていましょう。私たちは自分の賜物を、何のために用いているでしょうか?自分の徳を高めるためでしょうか?それとも教会の徳を高めるためでしょうか?自分を大きく見せる為でしょうか?それとも神様を大きく見せる為でしょうか?大切なのは、何をするか、何ができるか、ではなく、どのような心で行うかです。どうか私たちの心が、主の栄光のみを求めることができますように!

あなたがたの場合も同様です。
あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、
教会の徳を高めるために、
それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
Ⅰコリント14章12節

2011年1月27日木曜日

「しもべの心」 マタイ25章31-46節、ルカ22章24-27節

前回から「私にもできる何かがある」と題して学んでいますが、その原題は「あなたの賜物が輝く5つのステップ」です。しかし私は、このテーマについて学ぶ時、いつも一つのことを自戒しています。それは、決して「単なる自己実現(成功主義)に終わらない」ということです。現代のキリスト教会(教界)にも、形を変えた自己啓発は入り込んでいます。そして「もっとあなたの賜物を活かして、あなたの夢をかなえなさい。もっと自分を大きくしなさい」と教えるのです。それは100パーセントの間違いではありませんが、聖書が第一に教えるところではありません。私たちは、自分に与えられている(任されている)賜物を用いて、何を目指すのでしょうか?

それは、互いに仕え合うことです。前回の学びで、私たちが生まれた(救われた)目的は「神と人とを愛すること」だと学びました。しかしこの二つは、分けられることではなく、実は二つで一つなのです。イエス様はたとえ話の中でこう言われました。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです(25:40)』。この私とは主ご自身のことです。この世の最も小さな者たち、困っている人、孤独な人、そして助けを必要としている人、そんな人たちのためにしたことは、神様にしたのと同じだと主は言われるのです。だから神と人とに仕えることは二つで一つなのです。

しもべの心を失ってはいけません!時々、賜物を強調するあまり、「私の賜物」の「私」にスポットライトが当たってしまうことがあります。私は、それを「マイ・タラントイズム(私の賜物主義)」と呼んでいますが、何かが欠けてしまっているように思います。それは「しもべの心」です。Ⅰペテロ4章10節にはこうあります。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」。私たちは、賜物(タラント)の「良き管理者」です。管理を任されているだけで、私たちの所有物ではありません。何のために任されているのか、それこそ「御心を行い」「互いに仕え合うため」なのです。

世の中の基準は、まったく逆です。人々は言うでしょう。「自分の才能を活かし、少しでも上に行きなさい」。でもクリスチャンは自分の賜物を「仕える(下に行く)ため」に用いるのです。この基本原則を理解していないと、教会の中で自分の賜物を活かしてもなかなか上にいけないので、ガッカリしてしまうか、「誰も自分を正当に評価してくれない」と周りの人々を責めることになってしまいます。イエス様は誰よりも「しもべ」となられました。あの最後の晩餐においても、弟子たちは「誰が一番偉いか」と論じ合っていたのですが、イエス様は率先して給仕され、こう教えられました。「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています(22:27)」。

このことを理解していないと伝道でさえも全くの別物になってしまいます。学生時代、リバイバル集会の帰り道、こんなことを聞きました。「いやぁ恵まれた。イエス様の十字架はよく分からないけど、伝道はしたいと思った」。正直、危険だと思いました。十字架のない伝道なんて単なる勢力拡大の野心です。極端なことを言えば、そういった心から宗教戦争や、十字軍の過ちが生まれたのです。パウロはこう言っています。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです(Ⅱコリント4:5)」。しもべの心を失った福音にも賜物にも、もはや何の価値もありません!

あなたはしもべの心を失っていませんか?「一番偉い人は、一番若いもののように。治める人は、仕える者のように」それが聖書の基準です。年齢や立場に関係なく、みなが一番若いもののようになり、仕え合うのがキリストの教会です。私たちは仕えられるためではなく、仕えるために救われたのです!

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、贖いの代価として、
自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ20章28節)

2011年1月21日金曜日

「そもそも何のために生まれたのか」 エペソ2章10節、Ⅰペテロ2章9節

年も改まり、今日から新しい学びに入ります。参考図書はリック・ウォレン著の「あなたの賜物が輝く5つのステップ(PDJ出版)」です。そこから12回に分けて学んでいきたいと思いますが、今日のタイトルは「そもそも私たちは何のために生まれたのか」です。この場合の「生まれる」には二つの意味があります。一つは文字通り、この世に「生まれる」ことです。そしてもう一つは「救われる(生まれ変わる)」という意味です。私たちは何のために生まれたのでしょうか?

その目的を自覚する時、私たちの人生はまったく新しくされます!私たちは本来自分がやるべきじゃないことや、本来の目的から外れたことに時間や力を奪われるとき、徐々に元気と喜びを失っていきます。またどんなに頑張っても、一向に好きになれず空しく感じてしまうのは、もしかしたら、その目的が神様の目から見てズレていたり、自分の賜物と合っていないのかもしれません。もちろん、自分の感覚(好き嫌い)だけに頼って物事を判断してはいけませんが、もし私たちが本当に、自分にぴったりの人生の目的(目標)に出会うなら、どんなに辛くても、そこには「尽きぬ喜び」と「充実感(fulfillment)」、そして「豊かな実(fruitfulness)」が生まれるのです。

神様が私たちに用意して下さる人生はオーダーメイドです。それぞれ違う賜物を持っていて、神様はそれぞれに違うミニストリ(奉仕)を用意して下さっているのです。だから他人の活躍をみて羨ましく思う必要はないし、真似をする必要もないのです。自分のユニークな賜物を、どのように発見し、どのように主のために用いて行くのかについては、少しずつ学んでいきますが、最初にまず確認したいのは、そういった違いを超えて、私たちが目指すべき「究極の目的」なのです。

私たちが生まれてきた目的は「良い行いをするため」です(エペソ4:10)。それは「一日一善」というような漠然としたものではありません。聖書でいうところの「良い行い」とは「神様と隣人を愛し、神様と隣人に仕えること」なのです。ちなみに、この「神と人とに仕えること」を「ミニストリ」と呼びます。なぜわざわざカタカナなのか?それは「奉仕」という言葉には、どうしても「従順」「忠実」といった受け身のイメージが強いのですが、「ミニストリ」はもっと積極的で自発的に行うものだからです。私たちは、実に、このミニストリのために造られたのです!自分のためだけに生きても満足はありませんが、神と人のために生きるとき真の満足があるのです。

また、私たちが救われたのは、イエス・キリストの素晴らしさを述べ伝えるためです。聖書にはこうあります。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです(Ⅰペテロ2:9)」。ここに牧師と信徒の区別はありません。みんなが「王である祭司」であり「献身者」なのです。私たちの考えでは、特別なことをする人が「献身者」であり、その他の人は「一般信徒」なのもしれません。しかし聖書では「みんなが献身者なのだから、みんなで使命に生きよう」と言われているのです。

あなたは、その召しにふさわしく歩んでいますか。具体的なことは、これから学んでいきますが、まずこの人生の目的と使命を再確認したいと思います。いつの間にか私たちの人生は、本来の使命ではないことを中心に回っていて、そのことに忙殺されていないでしょうか?そして、自分が何のために生かされているのか、その使命さえも忘れてしまっていることはないでしょうか?◇世の中の人はいうでしょう。まずは「自分のため」で、余力があったら「神と人」そして最後に「伝道」だと。でも私たちは神様が与えて下さった尊い使命に生きるのです。そこに真に祝福された人生があるからです。

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
マタイ22:37-40